弘農郡(こうのうぐん)は漢代から唐代にかけて河南省に設置された郡。前漢の時代が最も管轄地域が広範である。現在の河南省西部に位置する三門峡市南陽市西部及び陝西省商洛市を管轄し、長安から洛陽間の黄河南岸に位置し、古代より政治・軍事の要衝とされた。

中国地名の変遷
建置 前113年
使用状況 唐代に廃止
前漢弘農郡
右隊郡
後漢弘農郡
三国弘農郡
西晋弘農郡
東晋十六国弘農郡
南北朝恒農郡
弘農郡
鼎州
虢州
弘農郡
虢州

前漢の前113年元鼎4年)、武帝により函谷関付近に弘農郡が新設され、郡治が弘農県に置かれた。弘農・盧氏宜陽黽池丹水新安陸渾上雒の11県が管轄した。『漢書』によれば前漢末に戸数118,911戸、475,954人があった[1]

王莽のとき、右隊郡(うすいぐん)と改称された。後漢が建てられると、弘農郡の称にもどされた。

後漢のとき、弘農郡は弘農・陝・黽池・新安・宜陽・陸渾・盧氏・湖・華陰の9県を管轄した[2]

のとき、弘農郡は弘農・湖・陝・宜陽・黽池・華陰の6県を管轄した[3]永嘉の乱によって、弘農郡は五胡の諸国の統治下に入ったが、東晋の末年に劉裕北伐の成功によって晋の統治下にもどった。

南朝宋の初年に、弘農郡は弘農・陝・宜陽・黽池・盧氏・曲陽の諸県を管轄したが、景平初年に北魏に奪われた[4]

北魏では、献文帝(拓跋弘)の諱を避けるため、弘農郡は恒農郡と改称された。北魏の恒農郡は陝州に属し、陝中・北陝・崤の3県を管轄した[5]

東魏の恒農郡は義州に属し、恒農・北陝・崤の3県を管轄した[6]

北周のとき、弘農郡の称にもどされた。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、弘農郡は廃止されて、虢州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、虢州は弘農郡と改称された。弘農郡は弘農・盧氏・長泉・朱陽の4県を管轄した[7]617年義寧元年)、弘農郡は鳳林郡と改称され、盧氏県には虢郡が置かれた。

618年武徳元年)、唐により虢郡は虢州と改められ、鳳林郡は鼎州と改められた。634年貞観8年)、鼎州が廃止され、虢州に編入された。742年天宝元年)、虢州は弘農郡と改称された。758年乾元元年)、弘農郡は虢州と改称され、弘農郡の呼称は姿を消した[8]

脚注

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  1. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(筑摩書房、ちくま学芸文庫、1998年)、282-284頁。
  2. ^ 後漢書』郡国志一
  3. ^ 晋書』地理志上
  4. ^ 宋書』州郡志二
  5. ^ 魏書』地形志二下
  6. ^ 魏書』地形志二上
  7. ^ 隋書』地理志中
  8. ^ 旧唐書』地理志一


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