張 国淦(ちょう こくかん)は、清末中華民国の政治家。北京政府で要職を歴任した。乾若仲嘉。号は石公

張国淦
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1876年7月7日
光緒2年閏5月16日)[1]
死去: 1959年1月25日
中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 湖北省武昌府蒲圻県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張國淦
簡体字 张国淦
拼音 Zhāng Guógàn
ラテン字 Chang Kuo-kan
和名表記: ちょう こくかん
発音転記: ジャン グオガン
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事績

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地方役人の家庭に生まれる。1902年光緒28年)、挙人となり、1904年光緒30年)、内閣中書に及第した。1906年(光緒32年)、考察政治館の館員に選ばれ、その後、黒竜江将軍程徳全の幕僚となった。黒竜江では、調査局総弁、財政局会弁などを歴任する。

1911年宣統3年)2月、東三省総督錫良(シリャン)により、交渉局総弁に任じられた。6月、中央に戻り、統計局副局長に任じられる。12月に袁世凱が南方の革命派と和平交渉を開始すると、張国淦は参議として唐紹儀に随従し、これに従事した。

中華民国成立後、張国淦は、北京政府の銓叙局局長、国務院秘書長に任命された。その後も総統府秘書長、内務部次長などの要職を歴任した傍ら、同郷の副総統・黎元洪との親交を深めている。このほかにも段祺瑞徐世昌とも親しくなり、袁の皇帝即位前後で段との対立が激化すると、張がその調停に努めた。

袁の死後は、黎が大総統となり、段が国務総理となる。張国淦は、国務院秘書長、農商総長、司法総長などの要職を歴任した。府院の争いの際には、両者と良好な関係にある張がその調停に奔走した。しかし西原借款が問題になると、農商総長の地位にあった張国淦は署名を拒否したため、段からの信任を失っている。それでも、安徽派の失脚とともに張は再登用された。以後も、段が臨時執政に就いていた間を除き、農商総長、教育総長、司法総長、内務総長などの要職を歴任した。

中国国民党北伐により北京政府が崩壊すると、張国淦も下野し、天津に寓居した。日中戦争(抗日戦争)勃発後は、上海に移ったものの、親日政府への参加の誘いはすべて断り、在野で著述に専念した。中華人民共和国成立後も大陸に留まり、上海文史館館員などとして、回顧録の編集に努めている。

1959年1月25日、北京で病没。享年84(満82歳)。

  1. ^ 丁賢俊・杜春和「張国淦」352頁、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1842頁による。Who's Who in China 3rd ed.,p.45は1873年とする。

参考文献

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  • 丁賢俊・杜春和「張国淦」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第2巻』中華書局、1980年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
張一麐
教育総長
1916年4月 - 6月
次代
孫洪伊
先代
章宗祥
農商総長(署理)
1916年6月 - 7月
次代
谷鍾秀
先代
阮忠枢
(総統府内史監)
総統府秘書長
1916年6月 - 7月
次代
丁仏言
先代
李盛鐸
農商総長
1917年7月 - 11月
次代
田文烈
先代
斉耀珊
農商総長(署理)
1922年6月 - 8月
次代
盧信
先代
王寵恵
司法総長
1924年9月 - 10月
次代
張耀曽
先代
王文豹
司法総長
1926年5月 - 6月
次代
羅文幹
先代
田応璜
内務総長(署理)
1926年7月 - 10月
次代
湯爾和