この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細

張 均(ちょう きん、生没年不詳)は、中国玄宗朝に仕えた政治家。宰相とされる張説の長子であるが、安史の乱の際、安禄山に仕え、宰相に取り立てられたため、配流された。弟に張垍・張埱がいる。

略歴編集

洛陽の人で、文章詩句に長けていた。太子通事舎人から郎中、中書舎人にまで昇進した。開元17年(729年)には、左丞相である父の張説から京官(長安にいる官僚)の査定評価で「上の下」の評価をもらった。しかし、当時の人々は不公平とは考えなかったと伝えられる。

開元18年(730年)に父の死後、燕国公を襲名する。戸部侍郎兵部侍郎を歴任するが、連座の罪により、饒州・蘇州の刺史に左遷される。長年かかって、また兵部侍郎に復帰した。自らを宰相の才と自負していたが、李林甫によって妨害されていたと伝えられる。天宝9載(750年)、刑部尚書となる。

天宝11載(752年)、李林甫の死後、陳希烈を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、楊国忠によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張垍の罪に連座し、建安郡太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、至徳元載(756年)、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された[1]

至徳2載(757年)、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈・張垍・達奚珣とともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房琯が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し苗晋卿に会い、取りなしを依頼した。粛宗は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ[2]合浦に配流した。

建中初年に、太子少傅が贈られ、子の張濛は徳宗に仕え、中書舎人に任じられた。

脚注編集

  1. ^ 玄宗がに出奔している最中、腹心の高力士に「朝臣のうち、誰が来ると思うか?」と尋ねた。高力士は、「張均・張垍兄弟は、代々、国恩を受けており、姻戚にあたりますから(張垍は玄宗の娘の尚寧公主の夫)、必ず来るでしょう。房琯は宰相の地位を望み、かなえられなかった上、安禄山にその器量を買われていたので、絶対に来ないでしょう」と答えた。玄宗は、「まだ、わからない」と語った。結局、来たのは、房琯であり、張均・張垍兄弟は房琯に誘われたが、理由をつけて断っていた。玄宗は高力士にこのことを嘆いたと伝えられる。
  2. ^ ただし、弟の張垍は助命されず、死罪に処された。

伝記資料編集

  • 旧唐書』巻九十七 列伝第四十七「張説伝」
  • 新唐書』巻百二十五 列伝第五十「張説伝」