張 耀(ちょう よう、503年 - 565年)は、中国北魏末から北斉にかけての政治家。名は曜とも書かれる。は霊光。本貫上谷郡昌平県

経歴編集

張鳳の子として生まれた。給事中を初任とし、司徒水曹行参軍に転じた。531年高歓が信都で起兵すると、張耀は中軍大都督の韓軌の下で府長史をつとめた。韓軌が瀛冀二州刺史に任ぜられると、張耀は韓軌の下で諮議参軍となった。後に御史による弾劾を受け、州府の同僚や韓軌の側近たち100人あまりが収賄の罪で検挙されたが、張耀ひとりが無罪で赦免された。丞相府倉曹として召された。

549年高洋高澄の後を嗣ぐと、相府掾に転じた。550年、文宣帝(高洋)が即位すると、都亭郷男の爵位を受け、摂倉庫二曹事をつとめた。秘書丞に転じ、尚書右丞となった。あるとき文宣帝が外出して、張耀が留守をつとめたことがあった。文宣帝が夜中に帰ってきたが、張耀は門を開かず、兵士に厳重に警備させていた。文宣帝は門の外で長らくうろうろしていたが、しびれを切らしてせきたてた。張耀は火をもって顔を確認すると門を開き、ひとり進み出て文宣帝と面会した。文宣帝は「卿は郅君章に学んでほしいものだ」と笑って言った。文宣帝は張耀の後について門から入ると、張耀に褒美を与えた。南青州刺史となったが、赴任しなかった。560年高演が丞相となると、張耀は秘書監に累進した。

張耀は北斉の歴代に仕えて、謹直につとめあげ、過ちがなかった。俸禄は一族に分け与えて、自身は質素な生活を送った。『春秋』を読むのを好み、『春秋左氏伝』を研鑽して、賈梁道にたとえられた。565年武成帝の朝議の場で、張耀が上奏したとき、突然の発作を起こして御前に倒れこんだ。武成帝が座を下りて張耀に呼びかけたが、答えはなかった。武成帝は「我が良臣を失うのか」と泣いて言った。10日ほどして死去した。享年は63。開府儀同三司・尚書右僕射・燕州刺史の位を追贈された。は貞簡といった。

伝記資料編集

  • 北斉書』巻二十五 列伝第十七
  • 北史』巻五十五 列伝第四十三