彌次喜多 名君初上り
『彌次喜多 名君初上り』(やじきた めいくんはつのぼり)は、日本のオペレッタ時代劇映画である[1][2]。1940年(昭和13年)の日活京都撮影所製作、日活配給作品、日活とテイチクの一連の提携作品のうちの一作である[1][2]。監督は当時31歳のマキノ正博、のちの巨匠・マキノ雅弘の戦前のトーキー作品である[1][2]。
彌次喜多 名君初上り | |
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監督 | マキノ正博 |
脚本 | 山上伊太郎 |
原作 | 山上伊太郎 |
出演者 |
片岡千恵蔵 沢村国太郎 志村喬 塩まさる ディック・ミネ 美ち奴 服部富子 市川春代 |
音楽 | 大久保徳二郎 |
撮影 | 石本秀雄 |
編集 | 宮本信夫 |
製作会社 | 日活京都撮影所 |
配給 | 日活 |
公開 | 1940年1月13日 |
上映時間 | 87分 (9巻) |
製作国 | |
言語 | 日本語 |
前作 | 鴛鴦歌合戦 第113作 |
次作 | 続清水港 第115作 |
概要
編集1939年(昭和14年)末に急遽製作された『鴛鴦歌合戦』は、片岡千恵蔵の急病による休養のため、本作を撮影する予定で編成したスタッフ・キャストを流用した急造作品で、主演の片岡の出番は巧みに少ないが、本作は片岡の回復を待って、改めて製作されたものである[3]。ただ、本作は、前作のように、脚本作成から完成まで「10日間」、主演の片岡の撮影時間が「2時間」、といった尋常ではない「撮って出し」のスケジュールではなかったが、同年12月29日の仕事納めまでに完成をしなければならなかった[3]。
本作の「原作・脚本」としてクレジットされているのは山上伊太郎であるが、山上は原案のみで脚色したのは別人であり、それを知ってがっかりしたとマキノは後述している[3]。
現在では、当時わずかな日程ででっちあげられた『鴛鴦歌合戦』の方が名が知れ渡り、東京国立近代美術館フィルムセンターにも所蔵され、DVDも国際的に販売されているが、本作は同センターに所蔵されておらず、したがって上映用プリント等の現存は確認されていない[4]。現時点での知名度も低い。
スタッフ・作品データ
編集キャスト
編集クレジット順である[2]。
- 片岡千恵蔵 - 左官金太/松原伯耆守(二役)
- 澤村國太郎 - 左官半次
- 塩まさる(テイチク) - 弥次郎兵衛
- ディック・ミネ(テイチク) - 喜多八
- 美ち奴(テイチク) - 矢場の女・お辰
- 服部富子(テイチク) - 大喜の娘・お市
- 香川良介 - 御側用人・柳川嘉兵衛
- 志村喬 - 国家老・圓山久太夫
- 遠山満 - 家老・間瀬大膳
- 団徳麿 - 圓山一味・蒲原幸兵衛
- 藤川三之祐 - 和尚
- 大崎史郎 - 圓山一味・西九郎兵衛
- 若松文男 - 古島礼三郎
- 石川秀道 - 圓山一味・会沢八十右衛門
- 薮内龍三郎 - 圓山一味・熊崎国蔵
- 楠栄三郎 - 案内伝五左衛門
- 福井松之助 - 江室龍平
- 大倉多一郎 - 大喜の亭主
- 志茂山剛 - 唄う矢場の客
- 小林三夫 - 同(唄う矢場の客)
- 武林大八郎 - 袴田平蔵
- 瀬戸一司 - 圓山一味・寺久保伝蔵
- 阪東薪太郎 - 唄う矢場の客
- 富士咲実 - 同(唄う矢場の客)
- 近松龍太郎 - 同(唄う矢場の客)
- 石丸三平 - 同(唄う矢場の客)
- 橘昇子 - 唄う矢場の女
- 巴弘子 - 同(唄う矢場の女)
- 藤木小枝子 - 同(唄う矢場の女)
- 末広華子 - 同(唄う矢場の女)
- 槇木くみ子 - 同(唄う矢場の女)
- 吉田礼子 - 同(唄う矢場の女)
- 市川春代 - 久太夫の娘・小雪
脚注
編集- ^ a b c d 弥次喜多 名君初上り、日本映画データベース、2012年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e 弥次喜多 名君初上り、日活データベース、2012年11月26日閲覧。
- ^ a b c マキノ[1977]、p.446-450. 同箇所では本作の脚色者の正体(山上伊太郎)は明かされていない。
- ^ 東京国立近代美術館フィルムセンター「所蔵映画フィルム検索システム」での検索結果の記述を参照。2012年11月26日閲覧。
参考文献
編集- 『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅裕、平凡社、1977年
- 同新装版、2002年 ISBN 4582282016
関連事項
編集外部リンク
編集- 弥次喜多 名君初上り - 日本映画情報システム (文化庁)
- 弥次喜多 名君初上り - 日本映画データベース
- 弥次喜多 名君初上り - KINENOTE
- 弥次喜多 名君初上り - 日活データベース