後藤 幸三(ごとう こうぞう、1881年明治14年〉6月22日 - 1977年昭和52年〉7月9日)は、大正・昭和期に愛知県名古屋市を拠点に活動した実業家である。株式相場で財を成した後藤安太郎の長男で、日本車輌製造社長や中央製作所社長をはじめ多数の会社役員を務めた。

後藤幸三の肖像写真(1928年以前)

美術品収集家でもあり、死後の1978年(昭和53年)になって自邸跡に美術品を一般公開する「昭和美術館」が開館した。

経歴 編集

明治・大正期 編集

1881年(明治14年)6月22日後藤安太郎の長男として生まれた[1]。出身地は岐阜県海津郡今尾町(現・海津市[2]。父・安太郎は同地の農家に生まれ、青年期は不動産投機や米相場に手を出していたが、1891年(明治24年)の濃尾地震を機に名古屋市へと移り株式相場に没頭、財を築いた[3]。後藤は1904年(明治37年)7月に京都第三高等学校を卒業し[4]1908年(明治41年)7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した[5]

大学卒業後は名古屋に戻り実業界に入った[2]1911年(明治44年)6月、父・安太郎が株式を買収して筆頭株主となっていた鉄道車両メーカー日本車輌製造監査役に就任[6]。同年12月鉄道会社名古屋電気鉄道の監査役となり[7]、翌1912年(大正元年)12月には電力会社の名古屋電灯でも監査役に選ばれた[8]1913年(大正2年)11月に名古屋株式取引所の理事にも就任している[9]。新設会社では、1912年10月信託会社として愛知信託が設立されると取締役[10]、1913年5月酸素ガス製造を目的に名古屋酸素が設立されると取締役社長に就任した[11]。愛知信託においても設立を主唱した西浦猪三郎が死去すると後任社長として経営にあたる立場となった[12]

1917年(大正6年)12月、名古屋電気鉄道で監査役から取締役へ転ずる[7]。同社市内線の市営化に際し郊外路線を分離した新会社・名古屋鉄道(名鉄)の設立にも発起人の一員として参画し、1921年(大正10年)7月の会社設立と同時に取締役となった[13]1918年(大正7年)12月には名古屋電灯でも取締役へ移る[8]。名古屋電灯の後身にあたる大手電力会社東邦電力でも引き続き取締役に選ばれ[14]、以後1927年(昭和2年)5月まで在任した[15]。なお名古屋電灯時代の1916年(大正5年)8月に同社の子会社として設立された電気製鋼所(後の木曽川電力)の監査役にも入っている[16]

昭和期 編集

1926年(大正15年)12月、監査役を務めていた日本車輌製造にて取締役へと異動し、翌1927年(昭和2年)2月12日付で社長に就任した[17]。技術者出身の第5代社長天野七三郎が急死した後、同社社長は人選の難航でしばらく空席となっていたが、不況下で経営実務に明るい人物を据えたいという元社長瀧定助の意向により、資本家重役として関係していた後藤が第6代社長に選ばれたという経緯がある[18]。ただし1929年(昭和4年)2月になり鉄道省の技術者秋山正八が常務取締役として招聘されると、以後後藤は会社の経営を秋山に委ねるようになった[19]。1930年代に入って会社の業績が回復したことから、後藤は副社長の三瓶勇佐に譲る形で1934年(昭和9年)12月に取締役社長から退任した[20]。なお社長在任中の1929年10月に名古屋株式取引所の理事を辞任している[21]

1936年(昭和11年)4月、名古屋に株式会社中央製作所が設立される[22]。同社は第八高等学校教授椎尾詷が発明した「ベルトーロ整流器」の製品化を目的に立ち上げられた会社で、後藤が初代社長に就いた[23]。機械工業界ではさらに翌1937年(昭和12年)12月、経営陣の充実を目指す大阪の電気溶接機メーカー大阪電気(1926年設立)に招かれ同社の取締役会長となった[24]。また1939年(昭和14年)5月[25]、大株主の立場で航空機メーカー立川飛行機の取締役に就いている[26]

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)11月、中部配電(現・中部電力)への統合で監査役を務める木曽川電力が解散する[27]1945年(昭和20年)5月には役員改選にあわせ名古屋鉄道取締役を退任した[28]。戦後1948年(昭和23年)時点では会社役員は中央製作所の社長を務めるだけであった[29]1950年(昭和25年)6月、その中央製作所の社長職も長男の後藤啓一(1911年生)に譲り、同社会長へと退いた[23]

1977年(昭和52年)7月9日午後8時、名古屋市立大学病院で入院中のところ脳梗塞のため死去した[30]。96歳没。

栄典 編集

美術品収集について 編集

 
自邸跡に建てられた昭和美術館(2011年)

父の後藤安太郎ともども美術品収集に熱心であった。父とともに買い入れた美術品の一つに古瀬戸尻膨茶入 「伊予簾」がある[2]。また「万葉集」の紀州本(紀州徳川家に伝わる写本)を入手してその複製に取り組み、1941年(昭和16年)に複製本を刊行して大学や図書館などに寄贈した[2]。さらに尾張藩家老渡辺規綱が建てた茶室「捻駕籠の席」を取得して1936年に自邸へと移築した[2]

晩年には収集した美術品・史料の保存・公開を図るべくこれらを財団法人後藤安報恩会(現・後藤報恩会、父の喜寿を記念し1935年設立)に移し、さらに美術館を建てるべく自邸の土地・建物も報恩会へと寄付した[2]。そして死去1年後の1978年(昭和53年)5月、名古屋市昭和区汐見町に「昭和美術館」が開館した[32]

脚注 編集

  1. ^ 『人事興信録』第5版こ69-70頁。NDLJP:1704046/1036
  2. ^ a b c d e f 『茶道の研究』通巻392号70-73頁
  3. ^ 赤壁紅堂『中京実業家出世物語』145-154頁
  4. ^ 学事 卒業証書授与第三高等学校」『官報』第6308号、1904年7月11日
  5. ^ 学事 卒業証書授与東京帝国大学」『官報』第7514号、1908年7月14日
  6. ^ 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』42-43頁・428頁(巻末年表)
  7. ^ a b 『名古屋鉄道社史』730・736頁(巻末年表)
  8. ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』236-237頁
  9. ^ 『株式会社名古屋株式取引所史』257-259頁
  10. ^ 商業登記 株式会社設立」『官報』第68号附録、1912年10月22日
  11. ^ 商業登記 株式会社設立」『官報』第260号附録、1913年6月12日
    産業時事 名古屋酸素創立」『工業之大日本』第10巻第7号、工業之大日本社、1913年7月
  12. ^ 『愛知県会社総覧』昭和5年版91頁
  13. ^ 『名古屋鉄道社史』99-103頁
  14. ^ 『東邦電力史』108-109頁
  15. ^ 商業登記 東邦電力株式会社変更」『官報』第185号、1927年8月10日
  16. ^ 『大同製鋼50年史』49-51頁
  17. ^ 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』433頁(巻末年表)
  18. ^ 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』93-94・103-104頁
  19. ^ 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』113-114頁
  20. ^ 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』123-124頁
  21. ^ 商業登記 株式会社名古屋株式取引所変更」『官報』第945号附録、1930年2月25日
  22. ^ 商業登記 株式会社設立」『官報』第2848号、1936年7月1日
  23. ^ a b 『中部経済圏人物誌(中)』76-77頁
  24. ^ 『人的事業大系』製作工業篇(下)289-293頁
  25. ^ 商業登記 立川飛行機株式会社変更」『官報』第3804号、1939年9月8日
  26. ^ 『人的事業大系』製作工業篇(上)202-204頁
  27. ^ 「木曽川電力株式会社第54回営業報告」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  28. ^ 『名古屋鉄道社史』255-256頁
  29. ^ 『人事興信録』第15版上コ31頁。NDLJP:1123771/225
  30. ^ 「訃報 後藤幸三氏」『中日新聞』1977年7月11日朝刊15頁
  31. ^ 褒賞 紺綬褒章下賜」『官報』第3680号、1939年4月14日
  32. ^ 「名古屋に新しい憩いの場 昭和美術館が誕生」『中日新聞』1978年5月9日県内版9頁

参考文献 編集

  • 浅野四郎 編『中部経済圏人物誌(中)』貿易之日本社、1964年。 
  • 坂野鎌次郎『愛知県会社総覧』昭和5年版、名古屋毎日新聞社、1929年。NDLJP:1240175 
  • 人事興信所 編『人事興信録』第5版、人事興信所、1918年。NDLJP:1704046 
  • 人事興信所 編『人事興信録』第15版上、人事興信所、1948年。NDLJP:1123771 
  • 赤壁紅堂『中京実業家出世物語』早川文書事務所、1926年。NDLJP:1020503 
  • 大同製鋼 編『大同製鋼50年史』大同製鋼、1967年。NDLJP:2515014 
  • 東邦電力史編纂委員会 編『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。NDLJP:2500729 
  • 東邦電力名古屋電灯株式会社史編纂員 編『名古屋電燈株式會社史』中部電力能力開発センター、1989年(原著1927年)。 
  • 名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 編『名古屋鉄道社史』名古屋鉄道、1961年。NDLJP:2494613 
  • 日本車輌製造 編『驀進 日本車輛80年のあゆみ』日本車輌製造、1977年。NDLJP:11950322 
  • 野村浩司 編『株式会社名古屋株式取引所史』名毎社、1943年。NDLJP:1067993 
  • 松下伝吉『人的事業大系』製作工業篇(上)、中外産業調査会、1940年。NDLJP:1244454 
  • 松下伝吉『人的事業大系』製作工業篇(下)、中外産業調査会、1940年。NDLJP:1244472 
  • 服部昭義「美術館を創った人々 昭和美術館 後藤幸三」『茶道の研究』第33巻第7号(通巻392号)、三徳庵、1988年7月、70-73頁、NDLJP:1518110/20 
先代
天野七三郎
日本車輌製造社長
第6代:1927年 - 1934年
次代
三瓶勇佐