愍懐嬪姜氏
愍懐嬪姜氏(ミンフェビンカンシ、민회빈강씨、万暦39年3月6日(1611年4月18日)- 順治3年3月15日(1646年4月30日))は李氏朝鮮の王世子・昭顕世子の正妃。本貫は衿川姜氏。
愍懐嬪姜氏 | |
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朝鮮世子嬪 | |
出生 |
万暦39年3月6日(1611年4月18日1611年4月18日) |
死去 |
順治3年3月15日(1646年4月30日1646年4月30日(35歳没)) |
配偶者 | 昭顕世子 |
子女 | 以下参照 |
父親 | 姜碵期 |
生涯編集
1611年、右議政・姜碩期の娘として生まれる。1627年、16歳で昭顕世子と婚姻し、世子嬪となる。1637年、朝鮮が清へ降伏し、8年間清の都・瀋陽で人質生活を送る。昭顕世子との間に三男五女を儲けた。
1645年、夫・昭顕世子が息を引き取る。その翌年、昭顕世子の廃嫡を主張していた金自点の告発により、仁祖が食べるアワビに毒を入れたとして、平民に降格の上、実家にて死を賜る。姜氏の兄弟や息子達は済州島等に流刑となる。享年36(満35歳没)。
死後編集
その後、長男と次男は謎の死を遂げている。次男は病死ともされるが、2人共、仁祖が放った刺客に殺されたと考える者もいる。
17代孝宗(昭顕世子の弟)の時代から3代に渡り、陰謀であるとして復位論争が起こり、1718年、19代粛宗の時代になってようやく、“愍懐”の称号を与えられて身分を回復する。賜死から72年が経っていた。
家族関係編集
- 父:右議政 姜硯期(カン・ソッキ)
- 夫:昭顕世子
- 長女:郡主(1629年-1631年。夭逝)
- 次女:郡主(1631年-1640年。夭逝)
- 長男:慶善君 (名は栢(石鐵)。1636年-1648年)
- 三女:慶淑郡主 (1637年-1655年。綾昌副尉 具鳳章に降嫁。1男を儲けた。)
- 次男:慶完君 (名は石磷。1640年-1648年)
- 四女:慶寧郡主 (1642年-1682年。錦昌副尉 朴泰定に降嫁。5男4女を儲けた。)
- 五女:慶順郡主 (1643年-1697年。黄昌副尉 辺光輔に降嫁。)
- 三男:慶安君 (名は檜(石堅)。1644年-1665年。男子の中で唯一生き残り、20代まで生存して結婚。2男を儲けた。長男の臨昌君(姜氏直系の孫)の系統が少なくとも李氏朝鮮の朝鮮半島支配が終わりを告げ、大韓帝国が滅亡する1910年まで存続している事が記録で確認される)。