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星野遺跡(ほしのいせき)は、栃木県栃木市星野山口付近(栃木市市街地から西北約10キロ、足尾山塊(チャート珪岩を産する秩父古生物層から成る)から発する永野川左岸の山口台地上にある。)にある縄文海進時代の遺跡である。縄文時代遺物が、田畑の表面のそこらじゅうにちらばっている。付近は永野川流域にあり、永野川に沿って同様の遺跡が他にも散在している。旧石器時代石器に似た遺物が、畑を耕していた所から発見されたのをきっかけに、1965年(昭和40)から1978年まで5次にわたって東北大学芹沢長介教授らにより調査が行なわれ、その後遺跡記念公園・遺跡記念館が作られ、訪れる者も増えた。発掘の結果は原人が活躍した前期旧石器時代で約8万年前の遺跡として発表されたが、多くの問題点が残った。

厳密には旧石器時代の遺跡の新発見がなされた記念の場所ではなく、その探索が初めて行なわれた記念の場所と、現在では考えられている。

目次

発見の経緯編集

星野遺跡記念館の館長で、税理士であった斎藤恒民(2007年死去[1])は、かねてより考古学に興味があり、永野川沿いの縄文遺跡や貝塚ローム層中の遺物等を調査研究していた。そして1965年ごろ、栃木市星野山口付近で、日本では産出したことのない、チャート製ルバロワ石核[† 1]に似た石塊を発見し、それがきっかけとなり、東北大学の研究グループと栃木市教育委員会等の合同調査が、以後1977年まで続いた[† 2][2]。芹沢長介が調査したのは、山口台地南端とその奥の後背山地の麓に第1・4地点と第2・3地点である。このうちの第3地点がルヴァロワ型石核が採集された場所に近くA~Fの6つのトレンチが設けられた。なかでもEトレンチでは地表下14メートルまでの間に13枚にも及ぶ文化層が検出された。地表下2.5メートル付近に鹿沼軽石層が約2メートルの厚さで存在した。この鹿沼軽石層の上第1~4文化層と下の第5~13文化層とに大別される。前期旧石器層として注目されるのは下層の文化層である[3]。鹿沼軽石層は、南関東の立川ローム基底部に相当、約三万年前の降下堆積物と認定された。そこからは膨大な量の「珪岩製旧石器」が出土した。チョッパー(chopper)・尖頭器スクレイパー(scraper)・小形彫刻刀・鋸歯縁石器・錐・小形台形石器・石核剥片などでかなり精巧な作りを示している。鹿沼土層直下から動物の足跡、また第6層直下から柱穴をもつ小形の住居跡らしい遺構も発見された。

調査地は、珪岩を伴う崖錐性堆積物から成り、石器とされるものも自然の営為(偽石器)による所産と結論づけられた[4]。「珪岩製前期旧石器論争」の一部である。

特に谷倉山の沢の一つが通り、室町時代に山越えの道があったとされる、林道山口沢線と林道寒沢(さむざわ)線の合流地点で、崩れた山の土が堆積している箇所は、深い所まで竪穴が掘られ、精しく調査した跡が今も残る。最近になり、この調査穴を記念し、「遺跡地層探検館」とされた。

しかし、ここからは「次々に明確な石器が発見される」と言ったような「奇跡」は起こらず、芹沢教授らは、更に明確な証拠を求めて、別の場所へ移っていった。旧石器捏造事件が起こる、ずっと前の事である。一方、斎藤はここに留まり、私費で記念館を建設した。斎藤の建てた記念館は、考古学遺跡を、ここを訪れる一般人にとって極めて身近な物に感じさせる事に成功し、考古学の一般啓蒙に大きな貢献をしてきた。

その後ここでは、幹線道路の整備、遺跡付近の道路の舗装、遺跡記念公園の整備、近くの永野川の護岸工事、川岸の公園の建設、私設のキャンプ場の建設などが行われた。しかし工事の際、残土の中から、新しい時代の石器はみつかるものの、旧石器時代の遺物が出土したとの話はなかった。また、遺物の表採に熱意を持つ、地元の天体の彗星捜索家が、ずいぶん地表をたんねんに見て歩いた。しかし縄文時代の遺物が多数発見されたものの、斎藤が見つけたような、旧石器時代のものが有ったとは語っていない。よってここでは旧石器の遺物は、あったとしても、極めて数は少ないのだろうと現在では考えられている。

以上のように栃木市の星野遺跡は、厳密には旧石器時代の遺跡の新発見がなされた記念の場所ではなく、その探索が初めて行なわれた記念の場所と、現在では考えられている。星野遺跡記念館(2017年3月現在休館中)は2017年に栃木市に寄贈された[1]

アクセスポイント編集

JR両毛線東武日光線栃木駅より栃木市営バス「星野・出流行き」に乗車、「星野遺跡」バス停で下車する。遺跡記念館と遺跡公園の前に、バス停がある。

車の場合は、東北自動車道栃木ICで降り、左折して栃木県道32号栃木粕尾線を尻内方面へ向かう。最近、直進して12分ほどで星野に着く新道が開通した。新道は歩道が広く、自転車道としても使用できる。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ ルバロワ石核とは、旧人・ネアンデルタールが石器を作成する際に残した石の台である。石塊から材料を分離してから加工するのではなく、まず石器の形を作ってから台と作成した完成品を後に分離した。そのときの台石のことである。独特の遺物で、旧人の存在の証拠の一つとされる。そこで他にも遺品が発見されれば、日本におけるヒトの歴史を、後期旧石器時代からいっきに遡れるとして、当然ながら注目された。
  2. ^ 1965年11月に発掘を始め1978年まで14年の歳月をかけ、14メートルの深さまで掘り下げ基盤の礫層を見つけた。

出典編集

  1. ^ a b 読売新聞栃木版 2017年3月10日 30面。
  2. ^ 松藤和人著 『日本列島人類史の起源 -「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-』 雄山閣 2014年 p.56-57
  3. ^ 松藤和人著 『日本列島人類史の起源 -「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-』 雄山閣 2014年 p.57-58
  4. ^ 「日本列島の旧石器時代」松藤和人『日本史講座第1巻』歴史学研究会・日本史研究会編 東京大学出版会 2004年5月

参考文献編集

  • 松藤和人著 『日本列島人類史の起源 -「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-』 雄山閣 2014年 ISBN 978-4-639-02313-5 C0021

関連項目編集