春屋妙葩
春屋妙葩(しゅんおく みょうは、応長元年12月22日〈1312年1月31日〉- 元中5年/嘉慶2年8月12日〈1388年9月12日〉)は、室町時代の臨済宗の禅僧である。室町幕府の帰依を得て臨済宗相国寺の第二世となるが事実上の開山国師。五山文化の発展に寄与した。ほかに天龍寺や臨川寺の住職となる。春屋は道号、別号に芥室、不軽子など。諡号は知覚普明国師。
春屋妙葩 | |
---|---|
応長元年12月22日 - 元中5年/嘉慶2年8月12日 (1312年1月31日 - 1388年9月12日〈新暦〉) | |
![]() 春屋妙葩像 自賛 絹本着色 | |
諡号 | 知覚普明国師 |
生地 | 甲斐国(山梨県) |
宗旨 | 臨済宗 |
寺院 | 天龍寺、京都臨川寺、阿波光勝院、伏見大光明寺、丹後雲門寺、南禅寺、相国寺 |
師 | 夢窓疎石 |
略伝 編集
甲斐国(山梨県)の生まれ。母方の叔父である夢窓疎石のもとで受戒すると天龍寺の住職となり[1]、室町幕府に対して五山第一の南禅寺の楼門(山門)新築を提言。幕府は楼門建設の援助をしたが南禅寺と紛争状態であった園城寺がこれに抗議。比叡山の門徒もこれに加わり楼門撤去や妙葩の配流を求め、紛争は政治問題にまで発展する。
1369年(応安2年/正平24年)に管領の細川頼之は楼門を撤去させる。妙葩は頼之と対立して天龍寺住職を辞して阿波国光勝院、さらに丹後国雲門寺に隠棲する。頼之は妙葩との和解のために会談を求めるがこれを拒絶。対して頼之は門徒の僧籍剥奪を行う。足利義満の命により、1376年に絶海中津とともに日本に帰ってきた汝霖良佐に法を授ける[2]。
1379年(康暦元年/天授5年)の康暦の政変で頼之が失脚した後に入京し、南禅寺住職として復帰する。妙葩は頼之が失脚する直前に丹後を出立しており、政変への関与も考えられている。
3代将軍足利義満の帰依を受け、同年10月10日、初代の僧録となる。同年、義満の要請により全国の禅寺を統括。その後、嵯峨宝幢寺を開山。さらに義満は相国寺を創建すると妙葩に開山第一世を請じたが、妙葩はこれを固辞。やむなく師の夢窓疎石を開山始祖とし、妙葩は第二世住持となった。実質的には妙葩が相国寺を開き、五山十刹制度を作り五山派を興した。五山版の刊行なども行い五山文化の発展に寄与した。また多くの弟子を育て、彼らは日明貿易を行う際に幕府の外交顧問となった。