是恒真楫
明治時代の政治家
是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月[1]) - 1892年(明治25年)3月13日[1])は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。
経歴
編集豊前国宇佐郡[2]畑田村[3](大分県宇佐郡駅館村、駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で生まれた。白石照山に師事し[3]漢籍を修める[1]。京都の春日潜庵に学び、ロシア語を研究した後に帰郷[3]。1875年(明治8年)宇佐郡に民会を設立し民権の発揚に努める[2]。1879年(明治12年)大分県会議員に推されたがこれを断り、西国東郡長に就任する[4]。1881年(明治14年)大蔵省に出仕し主税官となり1890年(明治23年)3月まで務めた[4]。ほか、日本運輸会社長を務めた[4]。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大分県第6区から出馬し当選[1]。中央交渉部に所属した[1]。第2回総選挙でも当選し衆議院議員を2期務めた[1]。再選後間もなく死去し、補欠選挙で元田肇が当選した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 木戸照陽 編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。