最上 義秋(もがみ よしあき)は、室町時代中期から戦国時代出羽国の武将・大名。最上氏第6代当主。山形城城主。右馬助右京大夫[2]修理大夫[3][2]

 
最上 義秋
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 不詳
死没 文明12年(1480年12月26日?
戒名 松岩芳公隣江院、あるいは隣江院殿松岩榮(栄)公
墓所 山形県山形市錦町の松岩寺
官位 右馬助右京大夫修理大夫
幕府 室町幕府 羽州探題
氏族 最上氏
父母 父:最上満家[1]?、最上義春?、母:某氏
兄弟 義春?、頼宗?、義秋
養子:満氏
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生涯 編集

寛政重修諸家譜』(寛政譜)などでは満家の三男[1]で、兄・義春の養子[4]、『後鑑』では義春の子としている[3]。母は某氏[2]

兄弟について、『寛政譜』は、義春、頼宗、義秋の順に記述した上で、「今の呈譜、義春をもつて頼宗が弟とす」と別記している[4]

文明6年(1474年)、応仁の乱の最中に先代・義春の死去により家督を継ぐ。応仁の乱の一因として斯波義廉斯波義敏の争いがあり、同族である最上氏は何らかの形で関与したと思われるが、その形跡はない。

文明12年(1480年)12月26日、死去[3](『寛政譜』は「今の呈譜二月」と別記している[2])。松岩芳公隣江院[2]、あるいは隣江院殿松岩榮(栄)公[3]。出羽国山形の松岩寺に葬られた[2]

中野満基(満家の弟。式部大輔)の子・満氏が養子となり、跡を継いだ[4]

弟(または息子)[5]義総は成沢氏に、義旦は杉山氏にそれぞれ分封された。満家の嫡男・頼宗の死と並び、何らかの政変があったとも考えられている。

羽州探題 編集

武家名目抄」の羽州探題の項に名を連ねており、「義春男義秋修理大夫文明十二年十二月廿六日卒」と記載されている[6]

脚注 編集

  1. ^ a b 『系図纂要』巻64 清和源氏(13)最上氏、『最上家譜』鈴木真年源蔵
  2. ^ a b c d e f 寛政譜 1922, p. 441.
  3. ^ a b c d 黒板 1933, p. 694.
  4. ^ a b c 寛政譜 1922, pp. 440–441.
  5. ^ 『系図纂要』によれば甥
  6. ^ 塙 1903, p. 544.

参考文献 編集

  • 塙保己一 編「第四十八冊職名部廿七下」『故実叢書』 第三輯《武家名目抄五》、吉川弘文館、1903年6月7日。NDLJP:771969  
  • 「巻第八十」『寛政重修諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日。NDLJP:1082717  
  • 黒板勝美 編『国史大系』 第三十六巻《後鑑 第三篇》(新訂増補)、国史大系刊行会、1933年10月20日。NDLJP:3431652 (要登録)
  • 七宮涬三陸奥・出羽 斯波・最上一族』新人物往来社、2005年
  • 『奥羽斯波氏諸列記』