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本多 正勝(ほんだ まさかつ、慶長元年(1596年) - 寛永7年5月10日1630年6月20日))は、江戸時代初期の武将下野小山藩、下野宇都宮藩藩主・本多正純の長男。母は酒井重忠の娘。正室は戸田氏鉄の娘。子は本多正好(長男)、本多正之(次男)、娘(戸田氏豊室)、娘(野間三竹室)。官位は従五位下出羽守。

生涯編集

慶長元年(1596年)、江戸幕府初期の重臣・本多正純の嫡男として生まれる。

慶長16年(1611年)、叙任。徳川氏による大坂の陣にも参戦し、慶長20年(1615年)の天王寺・岡山の戦いでは首級を挙げた。

元和8年(1622年)、父・正純が徳川将軍家に対する謀反の嫌疑で改易されると、これに連座して出羽国由利郡に配流された(宇都宮城釣天井事件)。寛永元年(1624年)には出羽久保田藩主・佐竹義宣のもとへ移された。

その後、赦免されることなく寛永7年(1630年)に死去。法名は英玄、墓所は秋田県横手市の正平寺。

子女編集

2男2女あり。

  • 長男:本多正好 - 本多家改易後、外祖父の戸田氏鉄に迎えられ養育される。戸田家の転封により尼崎から大垣へ居住。その後、安藤氏に招聘され客臣となり、和田角兵衛を名乗る。後に代官職となり、子孫は安藤家臣として2家に分かれた。
  • 次男:本多正之 - 配流地の横手で出生し正好とは異母兄弟である。正純没後に成瀬正虎に引き取られ、尾張犬山で養育される。寛文4年(1664年)に赦免され、徳川家綱に拝謁、2,000石を賜り幕府旗本として家を再興した。正之には嫡子がなく跡を石川正信の三男・正芳が本多家の養子となり相続した。
  • 長女:某 - 母や正好と共に戸田氏鉄のもとに身を寄せる。のち大垣へ移り住む。戸田氏鉄のもとに寓居していた戸田氏豊に嫁ぐ。氏豊の姉は徳川家光の側室・お万の方で、その縁から氏豊も幕府旗本に取り立てられる。
  • 次女:某 - 母や正好、姉と共に大垣へ移住。のち奥医師の野間成大に嫁ぐ。野間家は幕府医官として幕末まで存続する。