朴 始昌(パク・シチャン、박시창)は日本統治時代の朝鮮独立運動家大韓民国軍人本貫密陽朴氏濮始昌とも表記される。

朴 始昌
生誕 1903年11月5日
大韓帝国京畿道始興郡
死没 (1986-06-07) 1986年6月7日(82歳没)
大韓民国の旗 大韓民国ソウル特別市
所属組織 国民革命軍
韓国光復軍
大韓民国陸軍
最終階級 上校(中国軍)
少将(韓国陸軍)
墓所 国立ソウル顕忠院愛国志士墓域193号
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経歴

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1903年11月、京畿道始興にて朴海謙の三男として生まれる。6歳の時に朴殷植の養子となる。

1916年にソウル五星学校を卒業するとウラジオストクへ行き朴殷植と再会する。1919年9月に上海へ行き大韓民国臨時政府に参加。四民報の発行に関わる。その後、南京中央大学に入学するが1923年に中退した。中退後は上海に戻り朝鮮人青年同盟会に加入して活動。

1926年3月に黄埔軍官学校砲兵科第5期生として入学[1]。在学中に砲兵部隊に編入され北伐に参加。同学校の武漢分校が設立されると砲兵科に入学して1927年に卒業。卒業後は教官として武漢分校に設置された特別班で韓国人学生を指導した[2]。1928年に南京の中央陸軍軍官学校軍官団に入隊。1929年、国民革命軍警衛軍に入隊。1930年、中原大戦に参加。第一次上海事変では第5軍中国語版第87師隷下の連長(上尉)として参加。翌年、熱河戦役中国語版に参加[3]

1933年9月から1934年まで南京湯山の陸軍砲兵学校(第2期)に在学[4]。砲兵学校を卒業後は中央陸軍軍官学校洛陽分校の重兵器教官となる[3]。1935年頃に金九による軍官学校の生徒募集活動に協力。1936年8月29日、陸軍砲兵上尉[5]。1937年の盧溝橋事件勃発時には劉安祺中国語版の部隊で砲兵団に所属していた[6]。同年、中央陸軍軍官学校第一分校第14期第3総隊第1大隊第3隊(総隊長:章履和少将、大隊長:傅湘臨上校、隊長:盛鐘岳中校)少校隊附[7]

日中戦争が勃発すると重慶の新兵訓練処に配属。重慶軍政部第1補充訓練処第4団第3営営長。宜昌作戦に参加[8]。1940年、第39軍暫編第51師第1団第2営営長(中校)。後に第51師(師長:周志道)歩兵団団長[9]。長衡会戦、桂柳会戦などの戦いに参加[9]。1942年、第3戦区司令部服務。1943年12月、中国陸軍大学特別班第6期卒業[9]

1943年、光復軍総司令部高級参謀。1944年10月、韓国臨時政府参謀部参謀[10]。1945年8月、光復軍上海暫編支隊長。上海一帯で活動し、韓僑の生命財産の保護と朝鮮籍日本兵の帰国斡旋に尽くした。1946年7月に帰国。

柳東説統衛部長の勧めで警備士官学校特別第3期に入学[11]1947年3月、卒業して任大尉(軍番10358番[12])。任官から一か月後に少領に昇進した[11]。第2連隊第2大隊長[13]

1948年11月25日、第16連隊長(中領[14]

1949年5月、護国軍第102旅団長[15]。同年9月、大田地区兵事区司令官(大領[16]

朝鮮戦争前は忠清道衛戍司令官を務めた[11]1950年7月9日第1軍団民事部長[17]中国人民志願軍の参戦で撤収する際、第1軍団予備役民間参謀[18]として数十台のトラックを徴発して咸興及び興南一帯の避難民を陸路で輸送した[19]興南撤収作戦朝鮮語版では、米軍側と共同して避難民の分類、制御、保護業務を遂行し、避難民の衣食住問題の解決に尽力した[19]

1951年5月、韓国勤務団朝鮮語版第103師団長[20]

1952年4月15日、全羅北道地区兵事区司令官(~1954年12月5日)[21]

1956年、第1軍団副軍団長(准将)[22]

1959年6月、少将で予備役編入。韓国軍で要職に就くことはなかったが、これは李承晩と朴殷植の不仲が原因だったとも言われている[11]

大同工業顧問[23]、第5代光復会会長などを務めた。

1963年建国勲章独立章授与。

1986年6月7日、ソウル始興の自宅で老衰により死去[24]

2007年9月、大韓民国国家報勲処が9月の「今月の独立運動家」に選定。

親族

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出典

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  1. ^ 中国黄埔軍校網. “黄埔本校第五期砲兵科学員(補録)籍貫表” (中国語). 2016年3月26日閲覧。
  2. ^ 韓 1993, p. 27.
  3. ^ a b 『한민』 제22호” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2015年11月11日閲覧。
  4. ^ 中国黄埔軍校網. “陸軍砲兵学校第二期同学録” (中国語). 2016年3月26日閲覧。
  5. ^ 国民政府広報第2139号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2017年6月6日閲覧。
  6. ^ 金信 (2015) (中国語). 翱翔在祖國的天空-韓國臨時政府主席金九公子金信回憶錄. 台湾新北市: 藍海創意文化. pp. 255 
  7. ^ 黄埔軍校同学会. “洛阳分校·第一分校” (中国語). 2020年5月29日閲覧。
  8. ^ “从宜昌3000具尸骨中走出的抗战老兵” (中国語). 腾讯网. (2015年8月3日). http://news.qq.com/a/20150803/025971.htm 2015年11月11日閲覧。 
  9. ^ a b c 陈予欢 (2009). 陆军大学将帅录. 广州出版社. pp. 1034 
  10. ^ 臨政 국무회의, 文逸民. 朴始昌을 参謀部 참모로 선임.” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2015年11月11日閲覧。
  11. ^ a b c d “[배진영의 어제오늘내일] 朴維徹 전 광복회장 “우리 민주주의에 害를 끼친 사람에 대한 敍勳은 안 된다”” (朝鮮語). 月刊朝鮮. (2019年8月7日). http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?ctcd=E&nNewsNumb=201908100042 2019年8月9日閲覧。 
  12. ^ 佐々木 1976, p. 38.
  13. ^ 佐々木 1976, p. 133.
  14. ^ 佐々木 1976, p. 207.
  15. ^ 육군본부, 연대장급 인사이동을 발표” (朝鮮語). 国史編纂委員会. 2015年11月11日閲覧。
  16. ^ 朴宗相 (2020) (PDF). 6·25전쟁 시 병무행정기구. 国防部軍史編纂研究所. pp. 43. https://www.imhc.mil.kr/user/imhc/upload/pblictn/PBLICTNEBOOK_202101220220125360.pdf 
  17. ^ 6·25戦争史 第3巻-漢江線防御と初期遅延作戦” (PDF). 韓国国防部軍事編纂研究所. p. 302. 2018年9月9日閲覧。
  18. ^ 金信 (2015). 翺翔在祖國的天空-韓國臨時政府主席金九公子金信回憶録. 藍海創意文化. pp. 161 
  19. ^ a b 김행복 (2005). 흥남철수작전. 국가보훈처. pp. 47 
  20. ^ 한국노무단 10만명도 작전을 수행하였다. (PDF)
  21. ^ 兵務廳 (1986). 兵務行政史 上巻. 兵務廳. p. 806 
  22. ^ 張昌国 (1983年1月8日). “(59) 장창국 3기생 좌익세력” (朝鮮語). 中央日報. http://news.joins.com/article/1674515 2015年11月29日閲覧。 
  23. ^ 張昌国 (1982年12月3日). “(3580) 제79화 제79화 육사졸업생들(33) 장창국” (朝鮮語). 中央日報. http://news.joins.com/article/1666187 2015年12月12日閲覧。 
  24. ^ “전 광복회 회장 박시창옹 별세” (朝鮮語). 中央日報. (1986年6月9日). https://news.joins.com/article/2053843 2018年7月29日閲覧。 
  25. ^ a b c d e 朴殷植 (2002). 白巖朴殷植先生全集編纂委員会. ed. 白巖朴殷植全集 第6卷, 독립운동 관련자료〔白巖朴殷植全集 第6卷:独立運動関連資料〕. 6. 東方メディア. p. 24. ISBN 9788984572171. https://archive.is/07KEY 
  26. ^ “독립운동가 며느리 "그 욕만 하면 日여자들이 …"” (朝鮮語). 中央日報. (2012年2月26日). オリジナルの2020年9月21日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/W7HqM 
  27. ^ Choi Jeong-dong (2012年3月3日). “A life from exile to repatriation” (英語). 中央日報. オリジナルの2020年9月21日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/jdBpa 
  28. ^ Biography: Jennifer Park Stout, Deputy Chief of Staff”. アメリカ合衆国国務省. 2019年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月22日閲覧。

参考文献

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公職
先代
安椿生
  大韓民国光復会会長
第5代:1976.5.20 - 1977.5.20
次代
金弘壹