杉本 伝(すぎもと つたえ[注 1]または つとう[2]、正字体:杉本 傳、1890年10月22日 - 1979年4月7日)は、日本競泳指導者。

来歴 編集

大阪市大阪市に生まれる。

大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)を経て日本体育会体操学校(現・日本体育大学)に進み、1911年に卒業する。卒業後は体育教員嘱託として母校の茨木中学校に着任した。

同校では、大正天皇の即位大典を記念して水泳場が建設され、1916年3月15日に竣工する[3]。水泳場完成後、杉本は競泳の研究に取り組み、1919年に「水泳5ヵ年計画」を立案して「競泳研究特別班」を校内に編成する[3]。茨木中学は、同年8月に静岡県田方郡戸田村(現・沼津市)で開かれた東京帝国大学主催の第3回全国競泳大会に初参加する(戸田には東京帝大の水泳場があった)[4][注 2]。茨木中学の水泳場は同年11月から12月にかけての改修工事により、正式な競泳用50メートルプールとなった[3]。その翌年の1920年8月の第4回全国競泳大会では、茨木中学はクロール泳法によって優勝した[3][4]

1921年には上海で開催された第5回極東選手権競技大会(極東オリンピック)に杉本と生徒2名が代表として参加した[3]1923年に地元大阪で開催された第6回極東選手権競技大会では在校生と卒業生を合わせて16人もの代表選手が茨木中学から出場した[3]。その後も極東選手権では第7回マニラ・1925年)や第8回(上海・1927年)に茨木中学から代表選手が出場した[3]

1924年パリオリンピックでは杉本は水泳の代表監督となり、茨木中学OBの高石勝男石田恒信を含む選手団を引率した[3]。高石は100メートル自由形と1500メートル自由形にそれぞれ5位に入賞し、メンバーとなった800メートルフリーリレーでも4位に入賞した[5]。オリンピック終了後、杉本は単身で欧米視察旅行に赴き、飛込競技水球に触れ、それらの研究、普及に努める。

1928年アムステルダムオリンピックには飛込競技のコーチとして参加する。この大会では茨木中学生徒の入江稔夫高階富士夫やOBの高石が参加し、入江は100メートル背泳ぎに4位入賞[6]、高階は飛板飛込で決勝進出(9位)を果たした[7]

1932年ロサンゼルスオリンピックでは、杉本は水球チームのコーチとして3大会連続で参加した。入江稔夫は100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得した。

茨木高等学校の構内には、1985年10月27日に「日本近代水泳発祥之地」の記念碑が建立された[3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 藤井泰則『杉本伝: 水泳日本の生みの親、高石勝男とオリンピックへ』では「ツタエ」とルビが振られている[1]
  2. ^ 茨木高校の「栄光のプール」では翌年の第4回を「初参加」としているが、ここでは『東京大学戸田寮八十年史』の記述を採用する。

出典 編集

  1. ^ 藤井泰則著『杉本伝(ツタエ)』紹介 - 久敬会ウェブサイト
  2. ^ 杉本伝 - 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社コトバンク
  3. ^ a b c d e f g h i 栄光のプール (PDF) - 大阪府立茨木高等学校
  4. ^ a b 東京大学戸田寮史編集委員会『東京大学戸田寮八十年史 (PDF) 』東京大学戸田寮委員会、1976年(p.219の「年表」を参照)
  5. ^ Japan Swimming at the 1924 Paris Summer Games - Sports References
  6. ^ Japan Swimming at the 1928 Amsterdam Summer Games - Sports References
  7. ^ Japan Diving at the 1928 Amsterdam Summer Games - Sports References

参考文献 編集

  • 杉本伝『水泳競技』創元社、1926年
  • 杉本伝『泳ぎと歩き』久敬会、1965年
  • 『茨木高校百年史』茨木高等学校創立百周年記念事業実行委員会、1995年

関連書籍 編集

  • 藤井泰則『杉本伝: 水泳日本の生みの親、高石勝男とオリンピックへ』デザインエッグ社、2019年