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李 福(り ふく)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての政治家。孫徳。父は豪族の李権(伯豫)。子は李驤。孫は李寿益州梓潼郡涪県の人。

李福
蜀漢
平陽亭侯・前監軍・大将軍司馬
出生 生年不詳
益州梓潼郡涪県
死去 没年不詳
益州漢中郡南鄭
拼音 Lǐ Fú
孫徳
主君 劉備劉禅
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略歴編集

父は劉焉が益州として赴任した時、その命令に逆らい激怒した劉焉に惨殺された。当時、李福はまだ成人していなかったと思われる。

194年劉璋が継いだ後に仕官したと思われる。215年夏5月、劉備が益州を占領すると、書佐から西充国長・成都令・巴西太守・江州都督・揚威将軍に昇任した。 劉備死後、諸葛亮から尚書僕射に任命され、平陽亭侯に封じられた。234年五丈原の本陣に勅命で見舞いに赴き、諸葛亮から国家の後事と後任の丞相蒋琬に任すべきだとの遺命を受けた。238年を討伐するため蒋琬に従い、前監軍・司馬として漢中南鄭城に駐屯したが、突如急死した。

三国志』において、陳寿は彼を「緻密な知識を持ち、決断力に富んでいた。大志を持っており、蜀の支えとなる人物であった…」と評価している。

ただ、この陳寿の評はある意味矛盾している点もある。『蜀書』巻十五「鄧張宗楊伝」の楊戯伝には、子の李驤の事項が何一つ記述されていない。しかし、裴松之註に引用された『益部耆旧雑記』には、李驤の名があり、李福の子と記されている。

また、同じく裴松之註に引用された『華陽国志』(常璩著)巻十一「陳寿伝」にある「後賢志」にも、李驤の事項が記載されている。それによると、彼らは最初親密であったが、後に仲違いを起こすと絶縁状態に陥り、しまいには罵り合う関係になったとある。このため、陳寿は感情的な縺(もつ)れから『三国志』にわざと子の李驤の事項を記さなかったのではないかと伝われている。

参考書籍編集