松平 乗次(まつだいら のりつぐ)は、三河大給藩の初代藩主。奥殿藩大給松平家初代。

 
松平乗次
時代 江戸時代前期
生誕 寛永9年3月20日1632年5月9日
死没 貞享4年8月30日1687年10月6日
改名 左七郎(幼名)、乗次
戒名 乗次院殿覚誉道本大居士
墓所 東京都港区赤坂の浄土寺
愛知県岡崎市の大給家墓地
官位 従五位下縫殿頭
幕府 江戸幕府
三河国大給藩
氏族 大給松平家
父母 父:松平真次
正室:本多正直の娘
乗成貞乗(次男)、娘(赤井忠広室)、
娘(桑山元稠室)、娘(酒井忠英正室)、
娘(天方致通室)、養女:本多正種室)

生涯編集

寛永9年(1632年)3月20日、7000石の旗本である松平真次の長男として生まれる。真次は男子に恵まれなかったため、乗次が誕生する前に養子として乗真を迎えていた。そのため正保3年(1646年)に真次が死去すると、その領地と家督をめぐって両者が争った。結局は第3代将軍・徳川家光の裁定により、乗次が家督と4000石、乗真が3000石をそれぞれ相続することとなった。

寛文2年(1662年)3月7日に小姓組番頭に任じられ、12月7日に従五位下縫殿頭に叙位・任官する。寛文9年(1669年)7月8日に書院番頭に任じられ、寛文12年(1672年)12月3日に大番頭に任じられ、延宝9年(1681年)9月14日に江戸城留守居役に任じられるなど、幕府の要職を歴任したことから、天和2年(1682年)4月21日に丹波何鹿郡氷上郡などで2000石を加増された。

天和3年(1683年)7月に江戸城大奥の普請役を命じられ、貞享元年(1684年)に大坂定番に任じられると同時に摂津河内・丹波などで1万石の加増を受けて合計1万6000石の大名となり、大給藩主となった。

しかし領地に入部することもなく、家督相続から3年後の貞享4年(1687年)8月30日に死去した。享年56。跡を長男の乗成が継いだ。