松平忠房 (島原藩主)

松平 忠房(まつだいら ただふさ)は、三河吉田藩の第2代藩主。のち三河刈谷藩主、丹波福知山藩主を経て、肥前島原藩の初代藩主となる。「家忠日記」で有名な松平家忠の嫡孫。島原藩深溝松平家2代。

 
松平忠房
時代 江戸時代前期
生誕 元和5年2月12日1619年3月27日
死没 元禄13年10月1日1700年11月11日
改名 五郎八(幼名)、忠房
戒名 興慶院殿大倉令泰雲源通大居士
墓所 愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺
官位 従五位下、主殿頭、従四位下
幕府 江戸幕府
三河吉田藩主→同刈谷藩主→
丹波福知山藩主→肥前島原藩
氏族 深溝松平家
父母 父:松平忠利、母:竹谷松平家清の娘
兄弟 忠房忠季、妹(木下俊治室)
正室:鍋島勝茂の娘(永春院殿
側室:石丸定次の娘
好房忠倫、養子:忠雄

生涯編集

元和5年(1619年)2月12日、吉田藩初代藩主である松平忠利の長男として吉田城で生まれる。寛永9年(1632年)に父が死去したため、家督を継いだが、8月12日に三河刈谷に移封された。12月に従五位下・主殿頭に叙位・任官する。慶安2年(1649年)2月18日、丹波天田郡・何鹿郡などに1万5000石を加増されて4万5000石で丹波福知山に加増移封された。寛文6年(1666年)には丹後宮津藩主・京極高国改易による宮津城受け取り役を務めた。

寛文9年(1669年)6月8日、2万3000石を加増されて6万5900石の上で肥前島原に加増移封された。島原藩では藩政確立のために積極的な藩政改革を行ない、諸行政機関の設置をはじめ、寛文11年(1671年)に宗門改めを行なって寺社政策に尽力し、延宝7年(1679年)には検地を行なって検見制を税率として定める一方で、減税政策なども行なって農民経営の安定化に努めた。また文学を奨励し、忠房自身も多くの書物を収集して、現在ではそれらの書物が松平文庫として所蔵されており[1]、自らも「尚舎源忠房」という蔵書印を用いている。

寛文12年(1672年)7月には天草郡1300石を預かり地として与えられたが、これは忠房に長崎奉行の監督並びに長崎警備・西国大名の監視を命じるものでもあった。このように幕府から重用された忠房は、天和3年(1683年)12月に従四位下に昇叙されている。

しかし忠房の長男・好房は早世し、次男・忠倫は暗愚なため廃嫡と後継者に恵まれず、養子に忠雄を迎え、元禄11年(1698年)4月18日に家督を譲って隠居した。元禄13年(1700年)10月1日に死去した。享年82[1]

出典編集

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  1. ^ a b 勝又基「松平忠房の孝子伝 ―漢文孝子伝の役割と展開―」、『近世文藝』、日本近世文学会、2010年、 30-43頁、 doi:10.20815/kinseibungei.91.0_30