松平 忠利(まつだいら ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名下総国小見川藩主、三河国深溝藩主を経て同国吉田藩の初代藩主深溝松平家5代当主。官位従五位下主殿頭

 
松平忠利
松平忠利像(本光寺蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年1月16日1582年2月8日
死没 寛永9年6月5日1632年7月21日
改名 又八郎(幼名)→忠俊(初名)→忠利
戒名 寿松院殿超山源越大居士
墓所 愛知県額田郡幸田町深溝本光寺
官位 従五位下主殿頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
下総小見川藩主→三河深溝藩主→三河吉田藩
氏族 深溝松平家
父母 父:松平家忠、母:水野忠分の次女
兄弟 忠利忠貞忠一忠重忠隆
正室:松平家清の娘
忠房忠季木下俊治正室
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生涯 編集

深溝松平家4代当主・松平家忠の長男として誕生。慶長元年(1596年)から徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)、秀忠から偏諱を受け忠俊(のち忠利)と称した。

同年の関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で父が戦死したため、下総小見川の遺領を継いだ。その後は徳川家康に従って下野国まで赴き、上杉景勝の南下に備えての押さえとして残された。このとき、父の復仇に燃える忠利は戦場に赴くことを望んだが、許されなかった。

戦後、関ヶ原の戦功により父祖の旧領三河深溝に1万石を与えられた。慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増された。大坂の陣に参陣し、戦功をたてている。寛永9年(1632年)6月5日、51歳で死去し、跡を長男・忠房が継いだ。

 
松平忠利の廟(幸田町本光寺)

里村紹巴と交流して連歌に優れており、「寿松院殿忠利公御連歌懐紙」という歌集がある。

系譜 編集

父母

正室

子女