松平 忠敏(まつだいら ただとし)は、江戸時代前期の信濃国飯山藩の世嗣。

 
松平忠敏
時代 江戸時代前期
生誕 寛文12年(1672年
死没 元禄8年12月7日1696年1月11日
改名 忠樹(ただもと)→忠敏[1]
別名 与一郎[1]、万助[1]、内膳[1]通称
戒名 心源院蓮誉寂然道法[1]
信濃飯山藩世嗣
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠継 母:本多康将[1]
兄弟 忠敏永井直圓正室、菅沼定易正室、忠喬[1]
正室:宗義真の娘
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略歴 編集

寛文12年(1672年[1]、飯山藩世嗣松平忠継(藩主松平忠倶の子)の長男として生まれる[1]

貞享2年(1685年)5月、14歳で将軍徳川綱吉に拝謁した[1]元禄7年(1694年)1月18日、奥詰[注釈 1]として幕府に出仕したが、10月11日に役を解かれている[1]

元禄7年(1694年)12月18日、父の忠継は病気を理由として廃嫡された[1]。翌元禄8年(1695年)2月13日に、祖父・忠倶を継ぐべき世嗣(承祖嫡孫)として認められる[1]。しかし、同年12月7日に忠敏は24歳で死去した[1]

このため、弟の忠喬が藩の世嗣になることになった。しかし、祖父の忠倶は元禄8年(1695年)3月に大坂加番に任じられており、翌元禄9年(1696年)5月に任地大坂で没した。忠喬の将軍への御目見や任官は、家督相続が許可された後に行われることになった。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 奥詰は綱吉の時代に設けられた役職で、譜代大名・外様大名の中から任命されて隔日で登城し、将軍の諮問に応えた[2][3]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.29
  2. ^ 奥詰”. デジタル大辞泉. 2021年11月27日閲覧。
  3. ^ 奥詰衆”. 精選版 日本国語大辞典. 2021年11月27日閲覧。

参考文献 編集

  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)