松平親忠 (形原松平家)

戦国武将。形原松平家の当主

松平 親忠(まつだいら ちかただ)は、戦国時代武将佐渡守三河国形原城[2]主。形原松平家3代当主。

 
松平親忠
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文10年10月3日1541年10月31日
改名 弥太郎(幼名)→親忠
戒名 到運院殿峯誉西岸浄光
墓所 愛知県蒲郡市西浦町北馬場の光忠寺
官位 佐渡守
主君 松平清康
氏族 形原松平家
父母 父:松平貞副[1]
兄弟 親忠忠治
家広
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略歴

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2代当主・松平貞副の子として誕生。幼名は弥太郎。

松平清康に仕えたが、天文4年(1535年尾張国守山城[3]での清康の殺害後、嫡子・家広の妻として水野忠政の娘・於丈の方於上の方)を迎えるなど、西三河へ勢力を拡大する織田方との接近を図った。

天文10年(1541年)には東条城[4]主・吉良義昭を攻めており、この時期には岡崎松平広忠と同様、織田方への協力を余儀なくされた。

 
松平親忠の墓(蒲郡市光忠寺)

墓所は愛知県蒲郡市西浦町北馬場の光忠寺。法名は到運院殿峯誉西岸浄光。

脚注

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  1. ^ 『新訂寛政重修諸家譜』第1巻
  2. ^ 蒲郡市形原町東古城
  3. ^ 名古屋市守山区市場
  4. ^ 愛知県西尾市吉良町駮馬

出典

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