栗原 甲子男(くりはら かしお、1924年1月18日 - )は、日本プロゴルファー

 栗原 甲子男 
Kashio KURIHARA
基本情報
名前 栗原 甲子男
生年月日 1924年1月18日
国籍 日本の旗 日本
経歴
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来歴 編集

小金井カントリー倶楽部のアシスタントプロから戦中の1943年にプロになり、1951年日本オープンでは初日を前年覇者の林由郎と並んでの首位タイでスタートし、最終日には午後14、16番でバーディーを奪って小野光一の2位に浮上した[1]

1954年関東オープンでは小針春芳をプレーオフで下し、関東プロでは中村寅吉を1アップで下して優勝し、読売プロでは林を下す[2]

1955年の日本オープンでは初日に石井迪夫と共に1アンダー71で回って首位スタートし、最終的には林・橘田規と並んでの6位タイに入った[3]カナダカップ日本代表に選出され、小野とペアを組み、団体でマリオ・ゴンザレス&リッカルド・ロッシ(  ブラジル)と並ぶ13位タイで、上位に食い込むことはできなかった[4]

1957年の日本プロでは1回戦で小野に一時3アップとリードを奪われながら逆転勝ちし、中村寅吉との決勝では前半の18ホールを両者2ホールずつ取ってマッチイーブンで折り返すと、後半には栗原が2番を奪って先行[5]。中村がそこから反撃し、14番を終えて3アップと断然優位に立ったが、栗原は15番でバーディーを奪って一つ戻すと、16番では中村がバンカーに入れてボギーでリードは1アップになった[5]。17番は中村が寄せワンでしのぎ、1アップを保って18番パー4へ入った[5]。 勝負の行方が混とんとする中で中村が第2打をベタピンに着け、粘る栗原は振り切られた[5]

1958年の日本プロでは準決勝で松田司郎を8&7の圧勝で下し、前年と同じ顔合わせとなった決勝では前半の18ホール、確実にパーを重ねる中村に対し、栗原はところどころでミスが出る[6]。中村2アップでターンし、後半は2番で栗原がボギーを叩いて中村の3アップ[6]。5番では栗原がOBを打って中村がリードを広げ、中村は6、7番で連続バーディーと畳み掛け、一気に6アップまでもっていった[6]。その後、栗原が3つ返すが、中村の連覇を許したアップ[6]。日本オープンでは雨で冷え込んだ初日をパープレーの72にまとめて首位に立ち、最終的には小野と並んでの4位タイに入った[7]

1960年の日本プロでは準決勝で細石憲二に10番までで5アップと大きくリードされ、出鼻を挫かれると、そこから激しく追い上げたが一歩及ばなかった[8]

1966年の日本プロでは初日に6アンダー66をマークし河野光隆・橘田・内田繁と共に首位に立ち、小野と並んでの8位タイに入った[9]

主な優勝 編集

  • 1954年 - 関東プロ、関東オープン、読売プロ

脚注 編集

  1. ^ 第16回日本オープンゴルフ選手権(1951年)
  2. ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
  3. ^ 第20回日本オープンゴルフ選手権(1955年)
  4. ^ 【日本男子の海外挑戦記・昭和編⑬】日本人プロ海外初挑戦から28年、カナダカップで世界の頂点に
  5. ^ a b c d 第25回日本プロゴルフ選手権(1957年)
  6. ^ a b c d 第26回日本プロゴルフ選手権(1958年)
  7. ^ 第23回日本オープンゴルフ選手権(1958年)
  8. ^ 第28回日本プロゴルフ選手権(1960年) | 日本プロゴルフ殿堂
  9. ^ 第34回日本プロゴルフ選手権大会 | 日本プロゴルフ殿堂

外部リンク 編集