桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6]。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)[1][2][3][4]日本映画データベースにおける「柱章太郎」[5]は、単純な誤記である[1][4][6]。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した[1][4]

かつら しょうたろう
桂 章太郎
本名 松田 秀雄 (まつだ ひでお)
生年月日 (1914-05-08) 1914年5月8日
没年月日 (1935-05-13) 1935年5月13日(21歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)
死没地 満洲国の旗 満洲国
身長 151.5cm
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1929年 - 1935年
配偶者 月宮乙女 (死別)
主な作品
男伊達三度笠
日本巌窟王
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人物・来歴 編集

1914年大正3年)5月8日東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる[1][2][3][4]

1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院東亜キネマ京都撮影所に入社する[1][4]。同社での出演歴等は不明であるが、映画界にデビューして3年を経た1932年(昭和7年)、新興キネマと配給提携を行う製作会社・尾上菊太郎プロダクションに移籍、同年5月25日に公開された尾上菊太郎主演によるサイレント映画直参出世鳶』(監督押本七之助)に脇役出演、木村潤子の相手役を演じる[1][4][5][6]。尾上菊太郎プロダクション第二部が製作した『怪傑鬼神組』(前篇・監督清水勝人、後篇・監督郷竜二)で初主演を果たす[1][4]。1933年(昭和8年)4月、前年11月に高村正次御室撮影所に設立した宝塚キネマ興行に移籍、『天変二筋道』『男伊達三度笠』(いずれも監督堀江大生)に主演、羅門光三郎阿部九州男に次ぐ同社のスターとして待遇され、同年、映画雑誌『キネマ』において行われた「新進スタア推薦投票」において、第1位を獲得している[4]。満19歳になるこのころ、1歳年下の女優・月宮乙女と結婚している[7]。同年7月には同社では賃金未払いが発生、経営者と従業員が対立、製作も遅滞[8]、同年7月8日に公開された主演作『男伊達三度笠』を最後に、桂は月宮とともに同社を退社する[1][4][5][6]

同年8月、東京に戻って、北豊島郡西巣鴨町(現在の豊島区西巣鴨4丁目)にあった大都映画に月宮とともに入社する[1][4][5][6][7]。同社では、社主・河合徳三郎の娘である三城輝子とのコンビを組み、『霧の中の仁侠児』(監督中島宝三)、『情艶鹿の子崩れ』(監督石山稔)、『気まぐれ伊太郎』(監督中島宝三)、『日本巌窟王』二部作(監督中島宝三)等で人気を博した[1][4][5][6]。『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によれば、身長5尺(151.5センチメートル)、体重12貫300匁(46.1キログラム)と記されている[7]

片岡千恵蔵に代表される「明朗型スター」として、そのフレッシュさに将来を期待されていたが、1935年(昭和10年)1月20日に公開された主演作『仇姿隠密道中』(監督大伴竜三)に出演したのを最後に召集され、独立守備隊に従軍したが、同年5月13日、満洲(現在の中華人民共和国東北部)にて戦死する[1][3][4]。満21歳没。

出演作は『大号令』(監督吉村操、1934年)を除き、すべてサイレント映画であった[5][6]。大都映画は、同年、桂の慰霊祭を行い、ドキュメンタリー映画『故桂章太郎慰霊祭實況』を製作、同年8月8日に公開された『御存知猿飛佐助 後篇』(監督大伴竜三)と同時に内務省警保局の検閲を受けた記録が残っている[9]。月宮乙女は、同年中は大都映画に所属、出演していたが、翌年、阪東妻三郎プロダクションに移籍、戦後、小堀明男と再婚した[10][11]

フィルモグラフィ 編集

クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[12][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

尾上菊太郎プロダクション 編集

製作は「尾上菊太郎プロダクション」、配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]

宝塚キネマ興行 編集

すべて製作・配給は「宝塚キネマ興行」、すべてサイレント映画である[5][6]

大都映画 編集

すべて製作・配給は「大都映画」、特筆した特別作以外はすべてサイレント映画である[5][6]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n キネマ旬報社[1979], p.155.
  2. ^ a b c 映画世界社[1934], p.65.
  3. ^ a b c d 日外[1983], p.134.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 桂章太郎jlogos.com, エア、2013年5月22日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 桂章太郎柱章太郎(表題誤記)日本映画データベース、2013年5月22日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 桂章太郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月22日閲覧。
  7. ^ a b c 映画世界社[1934], p.81.
  8. ^ 御室撮影所立命館大学、2013年5月22日閲覧。
  9. ^ 内務省[1985], p.636-637.
  10. ^ 月宮乙女 - 日本映画データベース、2013年5月22日閲覧。
  11. ^ キネマ旬報社[1980], p.455.
  12. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月22日閲覧。
  13. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月22日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集