マキノ・プロダクション

同社が発売した家庭用ディフュージョン版9.5mmフィルムのブランド「マキノグラフ」のマーク。
マキノ・プロダクションの象徴、花園天授ヶ丘御室撮影所。1928年(昭和3年)の写真。

マキノ・プロダクション1925年6月 設立 - 1931年5月 改組 / 同年10月 新社解散)は、かつて京都に存在した映画会社である[1][2]。製作拠点は御室撮影所(おむろさつえいじょ)[1][2]サイレント映画の時代に牧野省三が設立、直木三十五衣笠貞之助伊藤大輔、そして阪東妻三郎勝見庸太郎など外部の独立プロダクションの若手とも提携し、数々の傑作を生み出した。最末期にはトーキーの研究にとりくんで先駆的トーキー作品を発表、これが牧野没後のマキノトーキー製作所へとバトンをつないでいく。

沿革編集

前史編集

1924年(大正13年)8月、「等持院撮影所」を持つ牧野省三のマキノ映画製作所は、配給網をもつ東亜キネマに吸収合併され、牧野省三は東亜キネマの「甲陽撮影所」「等持院撮影所」両所長に就任した[1][6]。東亜キネマと合併したマキノは、呂九平・阪妻の黄金コンビを軸として、監督に沼田紅緑金森万象後藤秋声(岱山)、日活の女形から転じた衣笠貞之助、国活の撮影技師だった仁科熊彦、大活の残党二川文太郎井上金太郎らを擁し、脚本部には志波西果を筆頭に悪麗之助(陸大蔵)、西条照太郎など錚々たる才能を集めた。この間にデビューしたスターは鳥人・高木新平、門田東鬼蔵(月形龍之介)、太田黒黄吉(團徳麿)、明石潮、現代劇では中根竜太郎岡田時彦が在籍。女優では森静子、マキノ省三の娘マキノ輝子生野初子泉春子環歌子などがいた[7]。東亜キネマ等持院撮影所では、マキノ映画製作所時代から引き続いて、脚本家・寿々喜多呂九平、監督・二川文太郎による、看板スター阪東妻三郎の剣戟映画が人気を博した。

1925年(大正14年)1月、従業員の出身母体による派閥があり「東亜派」と「マキノ派」の対立を収めるため、「東亜キネマ等持院撮影所」の名称を「東亜マキノ等持院撮影所」と改称、所長代理に「東亜キネマ甲陽撮影所」の監督で当時31歳の山根幹人が就任した[1]。山根は東京の映画プロデューサー高松豊次郎の娘・雪の夫であり、高松の「活動写真資料研究会」の映画監督、同研究会の吾嬬撮影所長だった人物である。牧野省三は、小説家の直木三十五が奈良に設立した「聯合映画芸術家協会」に協力、「東亜マキノ等持院撮影所」で同協会の第1作『月形半平太』を撮影した。同月15日、マキノ省三は浅草根岸興行部の根岸寛一の斡旋で新国劇澤田正二郎主演による『国定忠治』を公開、一カ月のロングランという空前のヒットを飛ばす。同年3月、「東亜マキノ等持院撮影所」が失火によりグラス・ステージ1棟が焼失、これによって10万円(当時)の大損失を受ける[1][2]

同年4月、マキノ省三は『国定忠治』の成功をきっかけに、直木三十三(のちの直木三十五)の企画による菊池寛原作の『恩讐の彼方に』を澤正主演で撮り、直木、立花寛一(のちの根岸寛一)らと聯合映画芸術家協会を設立。牧野省三は同協会をバックアップし、設立第1作として三たび新国劇総出演による『月形半平太』(監督衣笠貞之助)を製作する際に、等持院撮影所を提供した[6]。この年岡島艶子が入社。従業員間の「東亜派」と「マキノ派」の対立に加えて、東亜キネマ幹部と牧野省三との関係も険悪化する[6]

概要編集

独立プロダクションとの提携編集

同年6月、牧野省三は東亜キネマを退社した。当時46歳の牧野が京都の御室天授ヶ丘に設立したのが、この「マキノ・プロダクション」である[1][2]。牧野が建てた「マキノ・プロダクション御室撮影所」を開所し、「等持院撮影所」は東亜キネマに明け渡した[1][2]。同年7月、阪東妻三郎はこの機に東亜キネマを退社・独立した[2]

二川文太郎、寿々喜多呂九平、山上伊太郎ら、等持院撮影所の「マキノ派」従業員は、その多くが同社の設立に参加した[1]。マキノ派が去った後、等持院撮影所長には東亜の親会社・八千代生命の宣伝部長である小笹正人が就任した。等持院撮影所長代理の山根もマキノに合流し、東京ではこの動きに呼応して、高松が「タカマツ・アズマプロダクション」を設立、吾嬬撮影所を再稼働、これを「マキノ・プロダクション東京撮影所」とし、「マキノ東京派」を構成した。

直木三十五の聯合芸術協会はマキノを通じて劇界の巨星を続々銀幕に登場させ、映画界に一大波紋を投じた。『ノンキナトウサン・花見の巻』(畑中蓼坡監督)では喜劇の最高峰曽我廼家五九郎一座、『日輪』(衣笠貞之助監督)では市川猿之助と春秋座一棟を梨園から抜いてセンセーショナルな話題を呼んだ。一方で第二新国劇の若手を起用、原健作(原健策)、室町二郎(大河内傳次郎)を『弥陀ヶ原の殺陣』(衣笠貞之助監督)でデビューさせた。

阪東妻三郎は牧野省三のバックアップを受け、阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を設立、牧野省三は、阪妻プロと提携関係を結び、牧野総指揮のもと第1作として、マキノ所属の二川文太郎・寿々喜多呂九平コンビによる『雄呂血』を奈良の中川紫朗のスタジオ(中川映画製作所)で製作、しかしながら、阪東妻三郎と東亜キネマの契約が残っており公開ができないまま、続いて阪妻プロ第2作『異人娘と武士』(監督・脚本井上金太郎)を高松の経営する東京の吾嬬撮影所で製作、いずれもマキノ・プロダクションが配給し、『異人娘と武士』を同年9月25日、『雄呂血』を同年11月20日、いずれも高松の経営する浅草公園六区大東京を皮切りに全国公開を行った[8][9][10]

同年、大阪青年歌舞伎から市川右一が加入、市川右太衛門と名を改め、同年12月25日に公開された『黒髪地獄 前後篇』(監督沼田紅緑)に主演して映画界にデビュー、以降、マキノプロダクションは、右太衛門主演の映画を連打する[11]。阪妻プロ第3作『魔保露志』(監督志波西果)は同年12月31日に公開され[12]、マキノの大正15年正月映画となった。

1926年(大正15年)1月、3年前のマキノ映画製作所ボイコットと同様の独立プロダクション排斥運動をメジャー4社が行なうが、マキノはこれを打破した。旧劇(時代劇)、新劇(現代劇)ともに増強、時代劇には欠かせなかった「立ち回り」を排除した作品も製作、新しい映画づくりに挑戦した[1]。しかしこの直後、阪妻プロが松竹キネマと契約を結び、マキノから離れて、第4作を発表した[10]

 
忠魂義烈 実録忠臣蔵』(1928年)のため、名古屋の中部撮影所に建てられた赤穂城のオープンセット。現在の道徳公園の池に延長して堀のセットが造成された。

同年、脚本家の山上伊太郎が原作を書いた『闇乃森』(監督橋本佐一呂、脚本マキノ省三)、山上オリジナルシナリオによる『女怪』(監督金森万象)を世に問い、後者によって鈴木澄子がスターとなり、満18歳のマキノ正博が富沢進郎との共同名義で初めて監督した『青い眼の人形』で、監督として自立した。

同年初めごろに松竹蒲田撮影所を退社した勝見庸太郎が、マキノの監督に昇進していた実弟の勝見正義の勧めにより勝見庸太郎プロダクション(勝見プロ)を設立、マキノ・プロダクションはこれと提携し、同年11月14日、勝見プロ第1作『恋の丸橋』(監督勝見黙笑)を配給して公開した[13][14]

1927年(昭和2年)1月、牧野省三は超大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始する[1]。同年5月、名古屋(現在の南区道徳新町・道徳公園内)に「マキノ・プロダクション中部撮影所」を開所、牧野省三の長男で子役出身の映画監督のマキノ正博が、わずか18歳で同撮影所長に就任した。牧野省三は同撮影所に『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の「松の廊下」のセットを建て、撮影にとりかかる[1]

四剣豪とその独立編集

マキノ・プロダクション設立2周年を迎える同年2月には、市川右太衛門が同社を退社、同年4月には市川右太衛門プロダクションを設立、東亜キネマと配給提携し、第1作『侠骨漢 笑ふな金平 前篇』(監督押本七之助)を同年4月29日に公開している[15]

その2か月後の同年4月、大阪・明治座の名題だった片岡千栄蔵を直木三十五がスカウト、千栄蔵は1923年(大正12年)に小笠原プロダクションが製作した現代劇『三色すみれ Love in Idleness』(監督小笠原明峯)に主演、「植木進」の芸名ですでに映画界デビューを果たしていたが[16][17]、マキノで名を片岡千恵蔵と改め、同年5月6日に公開された『万花地獄 第一篇』(監督中島宝三)に主演[17]、同社のスター役者となる。千恵蔵に1日遅れて、同門の女形、嵐和歌大夫がマキノ省三の誘いで月給800円(当時)の高待遇で入社、名を「嵐長三郎」(のちの嵐寛寿郎)と改め、同年4月29日に公開された『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』(監督曾根純三)に主演して映画界にデビュー[18]、「鞍馬天狗」役で一躍人気スターとなる。阪東妻三郎、市川右太衛門が去ったのちも、片岡千恵蔵、嵐長三郎の若手が月形龍之介とともに、それぞれ独自の立ち回りを工夫して、マキノ剣戟黄金期を支えた。

同年5月13日には、「不世出の脚本家」と呼ばれた山上伊太郎が月形龍之介のために書き下ろした『悪魔の星の下に』(二川文太郎監督)を製作・公開する[19]。これがいわゆる「悪魔派」映画の大流行を呼び、以降、殺陣に残酷・怪奇趣味が加わった。

1928年(昭和3年)3月、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のフィルムが同作の編集中に失火、牧野の本宅と大量のネガ・フィルムが焼失し、失意のどん底に墜ちたマキノ省三は病床に就く[1]

そんななか、同年5月、片岡千恵蔵が独立、嵐長三郎も名をマキノに返して「嵐寛壽郎」を名乗って独立、マキノ映画は相次いで看板スターを失うこととなる。さらに山口俊雄中根龍太郎市川小文治山本礼三郎もこれに続いて脱退、全員が独立プロを興しているが、どれも3-4ヶ月で消滅し、存続できたのは片岡千恵蔵の千恵プロと嵐寛壽郎の寛プロの二つだけだった。

マキノ青春トリオ編集

 
浪人街 第一話 美しき獲物』(1928年)で第5回キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・ワン受賞時のマキノ正博(左、当時満20歳)、牧野省三(右、当時満50歳)。

このなか、いわゆる「マキノ青春トリオ」と呼ばれたマキノ正博(当時20歳)、山上伊太郎(当時23歳)、三木稔(のちの三木滋人、当時25歳)の若いスタッフが、『蹴合鶏』、『浪人街 第一話 美しき獲物』、『崇禅寺馬場』と立て続けに傑作を連作、この3本は同年の『キネマ旬報』誌のベスト・テン上位を独占する快挙となった。

同年11月、マキノ省三はトーキーの研究を開始。前年、ハリウッドで世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(1927年)が全米公開されたのを見てのことだった。1929年(昭和4年)7月5日、先駆的な国産ディスク式トーキーである『戻橋』(監督マキノ正博)が公開される[1]。そのわずか2週間後の同年7月25日、牧野省三が50歳で死去、御室撮影所で盛大な社葬が行われた[1]

牧野省三の没後編集

同年9月、牧野没後50日を迎え、「マキノ・プロダクション」の新体制を発表した[1](以下抜粋、一部追記)[20]

同年3月に東亜キネマを退社した元等持院撮影所長の小笹を撮影所長に迎え、当時21歳のマキノ正博が撮影部長に、19歳のマキノ満男が総務部長にそれぞれ就任した。

同年末には、アメリカから、牧野省三が「ミカド商会」を興したのと同じ1919年(大正8年)にユナイテッド・アーティスツ社を設立した俳優のダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォードの夫妻が同社の「御室撮影所」を訪問した[1]

ストライキ、そして終焉編集

1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生、従業員はストライキを起こした。19日夜から、女優達は京極太平洋のカフェーに進出。長男のマキノ正博は従業員側につき、争議委員長としてマキノ本家(同社代表取締役の母・牧野知世子、弟・マキノ満男)との交渉の先頭に立った。このとき争議委員長は代表取締役に殴られる[22]

1931年(昭和6年)1月30日、マキノキネマ関東配給所代表の阪間好之助阪間商事社長)の調停で争議終結、同社の製作権・配給権を従業員側に譲渡、製作再開する[2]。1月は6本、2月は旧作の再編集作品『マキノ大行進』を含めた6本、3月は10本を製作・配給した[23]が、ふたたび賃金未払いが起こり、争議は悪化する[2]。4月には4本を製作するに留まる。同年4月24日に公開した金森万象監督の『京小唄柳さくら』が、同社の最終作品となった[23]

同年6月2日、「新マキノ映画株式会社」を設立するが、御室撮影所の製作業務は再開されず、俳優の退社がつづく。水道、電気不払いにより争議再燃。マキノ雅弘社長は辞表を提出して行方不明となる。同年8月、マキノ智子・沢村国太郎夫妻らが退社、9月には監督の滝沢英輔(瀧澤憲)、並木鏡太郎監督が退社、ともに東活映画社へ移籍する[24]。同年10月、「新マキノ映画株式会社」は解散、高村正次が直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」を設立する[2]。翌1932年(昭和7年)御室撮影所焼失。

当時23歳のマキノ正博が、マキノ・プロダクションおよび牧野省三の遺した37万円(当時)という巨額の負債をひとりで背負うこととなった[25]

撮影所編集

配給編集

いずれも1930年(昭和5年)時点での情報である[27]

所属キャスト編集

1925年(大正14年)6月、マキノ・プロダクションの創設から改組を経て、1931年(昭和6年)10月解散までの時期に所属していた俳優の一覧である(一部追記)[32]

男優編集

マキノ・プロダクション所属キャスト(50音順)
芸名 本名 生年月日 没年月日 入社年 退社年 備考
秋田伸一 秋田伸一 (1899-11-25) 1899年11月25日 (1941-10-04) 1941年10月4日(41歳没) 1928年 1931年
秋吉薫[33][34] 秋吉馨 (1903-04-21) 1903年4月21日 不詳 1926年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
東嘉太郎[34] 石田嘉一 (1915-06-15) 1915年6月15日 不詳 1928年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
天野刃一 高野高作
高野興作
(1907-01-01) 1907年1月1日 戦後以降 1925年 1928年
荒尾静一[34] 吉冨一郎 1897年1月 1974年以降 1927年 1930年 浅草オペラの歌劇俳優。退社後は俳優を廃業し、宝塚歌劇団振付師に転向。
荒木忍 荒木武雄 (1891-04-26) 1891年4月26日 (1969-01-08) 1969年1月8日(77歳没) 1926年 1931年
嵐冠三郎 北岡力松 1878年 不詳 1925年 1931年 尾上松之助一派。女優北岡よし江の実父。
嵐藝太郎 (不詳) 不詳 不詳 不詳 不詳 詳細不明。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
嵐長三郎 高橋照市 (1902-12-08) 1902年12月8日 (1980-10-21) 1980年10月21日(77歳没) 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
嵐徳太郎 片山孝三郎 (1911-03-13) 1911年3月13日 1979年以降[35] 1928年 1930年 歌舞伎役者帝国キネマの俳優嵐璃徳の養子。
飯田英二[34][36] 飯田英二 (1904-01-25) 1904年1月25日 不詳 1926年 1931年 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。
石川良平 石川良平
齋藤良平
(1901-01-25) 1901年1月25日 1979年以降[37] 1927年 1931年
泉健 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
市川右太衛門 淺井善之助 (1907-02-25) 1907年2月25日 (1999-09-16) 1999年9月16日(92歳没) 1925年 1927年 退社後、市川右太衛門プロダクションを設立。
市川小延次 (不詳) 不詳 不詳 不詳 不詳 詳細不明。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
市川小文治 矢野正三郎 (1893-04-13) 1893年4月13日 (1976-01-09) 1976年1月9日(82歳没) 1926年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
市川新蔵 有田信一 (1911-11-05) 1911年11月5日 不詳 1928年 1929年 市川幡谷の子息。歌舞伎役者の名跡市川新蔵とは無関係。
市川幡谷 有田松太郎 (1881-10-23) 1881年10月23日 不詳 1928年 1929年 市川新蔵の実父。退社後、芸能界を引退。
市川米十郎[34] (不詳) 不詳 不詳 1928年 1931年 元歌舞伎役者。
市原義夫[33][34] 市原義一 (1907-08-15) 1907年8月15日 不詳 1925年 1931年
岩城秀哉 中家秀一 (1895-10-02) 1895年10月2日 不詳 1925年 1927年 新国劇の剣劇俳優。
上田五万楽 上田歳三 (1897-02-04) 1897年2月4日 戦後以降 1926年 1927年 戦後は松竹新喜劇に所属。
宇治里豊 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
大岩栄次郎[33] 西川謙次郎 (1889-10-02) 1889年10月2日 不詳 1928年 不詳 大岩栄二郎とも名乗った。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
大岡怪童 大岡菊次郎 (1901-08-08) 1901年8月8日 終戦後間も無く死去[38] 1927年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
大國一郎 重浦晃 (1900-01-01) 1900年1月1日 戦後以降 1926年 1928年
大谷鬼若 今西友次郎 (1878-09-30) 1878年9月30日 (1941-07-28) 1941年7月28日(62歳没) 1927年 1929年 元尾上松之助一派。退社後、芸能界を引退。
大谷友三郎 甲野義太郎
伊井義太郎
(1899-03-15) 1899年3月15日 (1971-08-13) 1971年8月13日(71歳没) 1925年 1929年 澤村長十郎一派との提携入社。
大谷万六 古澤德三郎 (1884-10-24) 1884年10月24日 不詳 1925年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
岡村義夫 植村義一 (1907-03-05) 1907年3月5日 不詳 1927年 1931年
大貫憲 桐林賢
大貫賢
(1906-03-10) 1906年3月10日 (1975-02-07) 1975年2月7日(68歳没) 1930年 1931年 プロ野球選手。解散後は東京セネタースに入団。
丘寵児 仙石治一 (1909-01-07) 1909年1月7日 (1977-03-23) 1977年3月23日(68歳没) 1930年 1931年 助監督を経て俳優に転向。
尾上延三郎[33] 淡路谷實 (1906-06-27) 1906年6月27日 不詳 1927年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
尾上松緑 牧野駒次郎 (1895-03-07) 1895年3月7日 不詳 1926年
1928年
1928年
1931年
日本映画プロダクション連盟参加のため一時退社(後に復帰)。同時期に活動していた二代目尾上松緑とは別人。
鹿島陽之助 惠良俊二郎 (1902-09-25) 1902年9月25日 不詳 1925年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
片岡市太郎 塚本末吉 (1877-02-13) 1877年2月13日 不詳 1925年 1928年 元尾上松之助一派。退社後、芸能界を引退。
片岡千恵蔵 植木正義 (1903-03-30) 1903年3月30日 (1983-03-31) 1983年3月31日(80歳没) 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
片岡仁引 大島善一 (1901-01-13) 1901年1月13日 1995年7月 1925年 1926年
勝見庸太郎 勝見國一 (1893-09-11) 1893年9月11日 (1962-09-01) 1962年9月1日(68歳没) 1926年 1930年 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。
桂武男 川浪正夫 1906年 戦後以降 1928年 1931年
金子新[33][34] 金子金太郎 (1905-03-26) 1905年3月26日 不詳 1926年 1931年
川島清 河島淸三郎 (1905-11-14) 1905年11月14日 不詳 1927年 1931年
川田弘道 絲井川淸 (1893-01-26) 1893年1月26日 不詳 1927年 1931年 川田弘三とも名乗った。
河津清三郎 中島誠一 (1908-08-30) 1908年8月30日 (1983-02-20) 1983年2月20日(74歳没) 1928年 1930年
菅野七郎[34] 菅野七郎 (1902-01-01) 1902年1月1日 不詳 1929年 1930年
久利富周介 (不詳) 不詳 1927年3月1日 1926年 1927年 旧芸名は東健児。在籍中に急性肺炎のため急逝。
日下部龍馬[36] 藤岡正一 (1907-01-01) 1907年1月1日 戦後以降 1925年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
小金井勝 柏井勝 (1902-05-25) 1902年5月25日 戦後以降 1927年 1931年
小岩井昇三郎[33] 岩本友久 (1902-09-16) 1902年9月16日 不詳 1926年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
児島武彦 程島三匡 (1888-01-24) 1888年1月24日 1979年以前[39] 1926年 1931年
小島陽三 土居光治 (1900-11-15) 1900年11月15日 不詳 1926年 1927年
五味國男 五味久雄
小崎久雄
(1898-01-02) 1898年1月2日 不詳 1928年 1929年 日活新派の俳優。新派俳優五味國太郎の子息、女優五味國枝の実兄。
小宮一晃 小宮一晃 (1902-11-03) 1902年11月3日 1979年以降[40] 1925年 1930年 河合映画製作社移籍のため退社。
近藤伊与吉 近藤伊與吉 (1894-08-17) 1894年8月17日 1944年 1925年
1928年
1926年
1930年
マキノ・プロダクション東京撮影所(マキノ東京派)所属。高松プロへの製作委託打ち切りと共に一時退社(後に復帰)。
桜井勇 西畑扇 (1909-04-01) 1909年4月1日 戦後以降 1928年 1930年
澤田敬之助 内山守 (1904-08-20) 1904年8月20日 不詳 1928年 1930年
澤村國太郎 加藤友一 (1905-06-01) 1905年6月1日 (1974-11-26) 1974年11月26日(69歳没) 1929年 1931年 元歌舞伎役者。後に女優マキノ智子と結婚。
實川芦雁[33] (不詳) 1909年 不詳 1928年 1930年 歌舞伎役者。
志茂山剛[33][34] 志茂山剛 (1903-07-16) 1903年7月16日 戦後以降 1926年 1931年 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。
ジョージ・桑英語版 桑原□□ (1885-04-07) 1885年4月7日 (1931-10-13) 1931年10月13日(46歳没) 1929年 同年 ハリウッドの日本人俳優。ジョージ・桑原とも。退社後は女優砂田駒子とレビュー団を結成、大阪松竹座に出演。
杉狂児 杉禎輔 (1903-07-08) 1903年7月8日 (1975-09-01) 1975年9月1日(72歳没) 1925年
1929年
1928年
同年
河合映画製作社移籍のため一時退社(後に復帰)。
助高屋助蔵 高坂薫二 (1898-04-07) 1898年4月7日 不詳 1928年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。退社後は前進座に所属。
瀬川瑠璃之助 政岡憲三 (1898-10-05) 1898年10月5日 (1988-11-23) 1988年11月23日(90歳没) 1925年 1927年 映画スタッフ(衣装デザイン、製作、撮影)を経て俳優に転向。呑平プロダクション設立のため退社、本名の政岡憲三に改名。
関操 渡邊善作 (1884-02-23) 1884年2月23日 1979年以前[41] 1925年 1926年
関根達発 關根橘太郎
大橋橘太郎
(1883-01-17) 1883年1月17日 (1928-03-20) 1928年3月20日(45歳没) 1926年 1927年 元日活新派の俳優。退社後間もなく死去。
孫孝雄 孫孝雄 不詳 不詳 1930年 1931年 プロ野球選手。解散後の消息不明。
高木新平 高木慶吉 (1902-11-03) 1902年11月3日 (1967-04-21) 1967年4月21日(64歳没) 1928年 1930年
高松錦之助 渡邊綱雄 (1898-01-13) 1898年1月13日 (1979-05-14) 1979年5月14日(81歳没) 1925年 1927年
瀧澤憲 瀧澤憲 (1902-09-16) 1902年9月16日 (1965-11-29) 1965年11月29日(63歳没) 1925年 1931年 映画監督二川文太郎の実弟。後に滝沢英輔に改名、映画監督に専念。
武井龍三 竹熊龍藏 (1905-05-08) 1905年5月8日 1964年11月 1925年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
谷崎十郎 谷内義淸 (1896-09-03) 1896年9月3日 (1977-07-06) 1977年7月6日(80歳没) 1928年 1931年
玉木潤一郎 玉木潤一郎 (1901-01-21) 1901年1月21日 (1968-03-09) 1968年3月9日(67歳没) 1925年 1928年 退社後は俳優を廃業し、映画プロデューサーに転向。
千葉三郎 丹羽竹松 1909年7月 1957年2月23日 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
都賀一司 須永□□ 不詳 戦後以降 1925年 1931年 都賀清司の子息、女優都賀静子の弟。
都賀清司 須永淸三郎 (1885-03-25) 1885年3月25日 (1946-06-17) 1946年6月17日(61歳没) 1925年 1931年 都賀静子・都賀一司の実父。
月形龍之介 門田潔人 (1902-03-18) 1902年3月18日 (1970-08-30) 1970年8月30日(68歳没) 1925年
1926年
1926年
1928年
マキノ智子との不倫により一時解雇(後に復帰)。退社後はツキガタプロダクションを設立、配給提携を結ぶ。
津村博 樋村滋男 (1901-03-21) 1901年3月21日 不詳 1925年 1931年
寺井幾夫 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
光雲龍男[33] 篠原淸一 1903年 不詳 1928年 不詳 芸名は「テルクモ タツオ」と読む。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
東條猛 竹内節 (1896-11-09) 1896年11月9日 不詳 1928年 1931年
東郷久義 品川久義 (1898-03-26) 1898年3月26日 不詳 1926年 1931年 柔道家。スポーツ俳優として入社。
永井柳太郎 高橋由松 (1903-03-08) 1903年3月8日 (1986-02-28) 1986年2月28日(82歳没) 1925年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
中根龍太郎 山口龍太郎 (1901-12-26) 1901年12月26日 (1944-08-30) 1944年8月30日(42歳没) 1925年
1929年
1928年
1931年
日本映画プロダクション連盟参加のため一時退社(後に復帰)。
中村吉松 遠藤吉松 (1900-12-27) 1900年12月27日 1944年 1925年 同年 阪東妻三郎プロダクション移籍のため退社。
中村東之助[33][34] 小川弘通 (1901-02-12) 1901年2月12日 不詳 1926年 1931年
新見映郎 中根十太郎 (1903-07-30) 1903年7月30日 不詳 1925年 1931年
根岸東一郎 根岸東一郎 1899年10月 終戦後間も無く死去[42] 1928年 1931年
根元弘 (不詳) 不詳 不詳 不詳 不詳 詳細不明。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
林誠之助 久保十郎 1907年3月 戦後以降 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
早間専太郎 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
速見稔[33][34] 米田速見 (1897-10-21) 1897年10月21日 不詳 1929年 1931年
阪東三右衛門[34] 榎本正 (1895-02-19) 1895年2月19日 不詳 1928年 1930年 歌舞伎役者。
阪東妻三郎 田村傳吉 (1901-12-14) 1901年12月14日 (1953-07-07) 1953年7月7日(51歳没) 1925年 同年 阪東妻三郎プロダクション設立のため退社。
土方草三郎 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
廣田昂 喜多猶光 (1902-07-05) 1902年7月5日 不詳 1926年 1928年 女優喜多富貴子の実兄。日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
星英府 川上英男 1907年3月 不詳 1926年 1929年
星月英峯[33] (不詳) 不詳 不詳 1925年 不詳 詳細不明。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
マキノ梅太郎 柳川勝好 (1907-12-30) 1907年12月30日 (1989-05-17) 1989年5月17日(81歳没) 1927年 1928年 マキノ青年派。入社と同時にマキノ梅太郎を襲名。日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
マキノ梅太郎 山田通 1909年5月 不詳 1927年 1929年 マキノ青年派。助監督を経て俳優に転向。初代マキノ梅太郎の退社に伴い、急遽二代目マキノ梅太郎を襲名。
マキノ潔 井上喜吉 (1912-06-02) 1912年6月2日 (2001-02-19) 2001年2月19日(88歳没) 1925年 1931年 マキノ青年派。旧芸名井上潔から襲名。
マキノ登六 林喜一郎 (1910-04-08) 1910年4月8日 (1932-06-07) 1932年6月7日(22歳没) 1925年 1931年 マキノ青年派。旧芸名片岡十六から襲名。
マキノ久夫 菊本久雄 (1909-07-18) 1909年7月18日 (1937-06-20) 1937年6月20日(27歳没) 1926年 1931年 マキノ青年派。旧芸名浅尾大三郎から襲名。
マキノ正美 林正美 (1911-11-19) 1911年11月19日 (2005-11-07) 2005年11月7日(93歳没) 1925年 1931年 マキノ青年派。旧芸名および本名林正美から襲名。
正宗新九郎 中西卯之助 (1906-03-08) 1906年3月8日 不詳 1930年 同年
松尾文人 松尾文人
佐藤文人
(1916-08-06) 1916年8月6日 1979年以降[43] 1925年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
松村光男 (不詳) 1897年 不詳 1927年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。松村光夫とも名乗った。
松本時之助[33] 丸茂一郎 (1903-06-20) 1903年6月20日 不詳 1927年 不詳 新国劇の剣劇俳優丸茂三郎の実兄。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
水原浩一 岩水劍二
土肥劍二
(1909-04-01) 1909年4月1日 (1969-05-07) 1969年5月7日(60歳没) 1927年 同年
南光明 鈴木光 (1895-06-30) 1895年6月30日 (1960-03-25) 1960年3月25日(64歳没) 1928年 1931年
武者小路五郎[34] 茨城貞次 (1885-03-15) 1885年3月15日 不詳 1928年 1931年
室町栄次郎 宮下榮次郎 (1908-01-20) 1908年1月20日 戦後以降 1931年 同年
森悦郎[33][34] 鈴木逸郎 (1905-01-01) 1905年1月1日 不詳 1926年 1929年 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。
森清 大塚秀次郎 (1888-02-04) 1888年2月4日 不詳 1927年 1928年 元日活新派の俳優。退社後、芸能界を引退。
守本專一[33][34] 守本熊太郎 (1894-08-14) 1894年8月14日 不詳 1926年 1931年
柳妻麗三郎 高見嘉一 (1898-03-09) 1898年3月9日 1988年または1989年 1925年 1931年
矢野武男 矢野武男 (1900-09-07) 1900年9月7日 戦後以降 1925年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
山口俊雄 山口俊雄 (1897-04-10) 1897年4月10日 (1945-01-27) 1945年1月27日(47歳没) 1928年 同年 新派俳優。新潮座との提携入社(後に脱退して単身入社)。日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
山本嘉次郎 山本嘉次郎 (1902-03-15) 1902年3月15日 (1974-09-21) 1974年9月21日(72歳没) 1925年 1926年 マキノ・プロダクション東京撮影所(マキノ東京派)所属。高松プロへの製作委託打ち切りと共に退社。
山本多賀志[34] 山本重太郎 (1902-01-01) 1902年1月1日 不詳 1926年 不詳 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社(後に脱退して単身入社)。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
山本礼三郎 山本博吉 (1902-09-15) 1902年9月15日 (1964-09-11) 1964年9月11日(61歳没) 1927年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
結城三重吉 小崎政房 (1907-04-27) 1907年4月27日 (1982-06-22) 1982年6月22日(75歳没) 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
横沢四郎 横澤四郎 (1906-03-10) 1906年3月10日 (1981-05-30) 1981年5月30日(75歳没) 1930年 1931年 プロ野球選手。解散後は東京セネタースに入団。
横田康 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
頼憲二郎[34][36] 新井賢次郎
新井憲二郎
(1906-02-15) 1906年2月15日 不詳 1927年 1931年
若松文男 松井恒吉 (1888-10-20) 1888年10月20日 1979年以前[44] 1925年 1931年
鷲塚東吾[33] 加藤正義 (1907-02-22) 1907年2月22日 不詳 1925年 1926年 阪東妻三郎プロダクション移籍のため退社。

女優編集

マキノ・プロダクション所属キャスト(50音順)
芸名 本名 生年月日 没年月日 入社年 退社年 備考
相生松子[34] 熊田靜江 (1891-10-07) 1891年10月7日 不詳 1925年 不詳 1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
浅間昇子 瀧澤昇子 (1910-01-18) 1910年1月18日 1973年 1930年 1931年
生野初子 生野靜子
高木靜子
(1907-04-27) 1907年4月27日 1988年 1928年 1929年 清岡歳子の実姉。後に俳優高木新平と結婚。
泉清子 泉井初子 (1909-12-21) 1909年12月21日 (1950-08-26) 1950年8月26日(40歳没) 1928年 1931年
泉春子 吉村春子
山口春子
德田春子
(1905-04-20) 1905年4月20日 1998年 1925年 1926年 阪東妻三郎プロダクション移籍のため退社。後に俳優中根龍太郎と結婚。
五十川鈴子[33] (不詳) 1914年 不詳 1925年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
市川鶴亀[34] (不詳) 1905年 不詳 1927年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
浦路輝子 堀内照子 (1904-07-22) 1904年7月22日 不詳 1929年 1931年 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。
大林梅子 大林志づゑ
鈴木志づゑ
(1907-06-24) 1907年6月24日 (1995-03-17) 1995年3月17日(87歳没) 1925年 1931年 後に俳優南光明と結婚。
岡島艶子 小牧つや
仁科つや
(1909-01-09) 1909年1月9日 (1989-02-04) 1989年2月4日(80歳没) 1925年
1927年
1926年
1930年
この間、東亜キネマ松竹下加茂撮影所移籍のため一時退社している。後に映画監督仁科熊彦と結婚。
薫潤子 金田せん (1908-03-18) 1908年3月18日 1993年 1929年 不詳 覚栄子かほる潤子とも名乗った。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。後に映画監督並木鏡太郎と結婚。
加藤光江[34] 加藤光江 (1913-02-22) 1913年2月22日 不詳 1927年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
加茂川緋紗子[33] 加茂川緋紗子 1923年 1930年6月27日 1928年 1929年 加茂川ひさ子とも名乗った。
河上君榮 川上高江 (1907-01-30) 1907年1月30日 戦後以降 1926年 1930年
喜多富貴子[33] 喜多冨貴子 1908年 不詳 1926年 1928年 俳優廣田昂の実妹。日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
北岡よし江[33][34] 北岡よし江 (1913-03-25) 1913年3月25日 不詳 1925年 1931年 俳優嵐冠三郎の実娘。北岡芳江とも名乗った。
清岡歳子[34] 生野年子 (1912-05-01) 1912年5月1日 不詳 1927年 1928年 生野初子の実妹。清岡年子生野歳子とも名乗った。
桐生梅子 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
櫻木梅子 櫻木梅子
川浪梅子
(1908-08-08) 1908年8月8日 1978年 1928年 1931年 後に俳優桂武男と結婚。
五月信子 前川しのぶ
御手洗忍
(1894-02-13) 1894年2月13日 (1959-07-21) 1959年7月21日(65歳没) 1928年 同年 近代座との提携入社。
澤小百合 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
幣原礼子 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
寿々川満智子 倉元貞子 (1909-02-03) 1909年2月3日 不詳 1926年 1931年
鈴木澄子 鈴木澄子 (1904-10-26) 1904年10月26日 (1985-01-18) 1985年1月18日(80歳没) 1925年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
鈴木信子 村井信子
瀧澤信子
(1903-08-08) 1903年8月8日 (1969-06-14) 1969年6月14日(65歳没) 1926年 1927年 後に映画監督二川文太郎と結婚。
砂田駒子 砂田駒子 1900年 1982年 1929年
1930年
同年
同年
レビュー団結成に伴い、俳優ジョージ・桑と共に退社(後に復帰)。
住之江田鶴子 柿畑田鶴子 (1908-01-18) 1908年1月18日 1980年以前[45] 1926年 1930年
玉木悦子 靑木ツネ
河野ツネ
(1901-10-28) 1901年10月28日 (1983-09-05) 1983年9月5日(81歳没) 1926年 1928年
多美一枝[34] 原田幸子 1909年 不詳 1928年 不詳 旧芸名は月原小雪月岡小雪は誤植[20])。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
千代田綾子 渡邊綾子 (1907-01-01) 1907年1月1日 戦後以降 1926年 1928年 河合映画製作社移籍のため退社。
都賀静子 須永靜子 (1912-05-18) 1912年5月18日 1980年以降[46] 1925年 1931年 俳優都賀清司の実父、都賀一司の実姉。
月岡小夜子 宮澤種子 (1904-07-13) 1904年7月13日 1973年 1925年 1926年
鳥羽恵美子 溝口しげ子 (1901-01-15) 1901年1月15日 戦後以降 1925年 1927年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
那智恵美子[33][34] 奥山蓮子 (1909-02-03) 1909年2月3日 戦後以降 1926年 1929年 勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。河合映画製作社移籍のため退社。
西京子 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
花園百合子[33] 堀口みね
納所美根子
(1901-04-08) 1901年4月8日 不詳 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
花柳悦子[33] (不詳) 1918年 不詳 1927年 1928年 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
早川麗子 (不詳) 不詳 不詳 不詳 不詳 詳細不明。1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
林喜美枝 長谷川一江 (1913-09-24) 1913年9月24日 1980年以降[47] 1931年 同年
春笠静子[33][34] 阪江靜子 (1912-03-03) 1912年3月3日 不詳 1926年 1927年 市川右太衛門プロダクション移籍のため退社。
藤川澄子[34] 藤川澄子 (1914-06-07) 1914年6月7日 不詳 1927年 不詳 1929年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載無し。
別所ます江 (不詳) 不詳 不詳 1925年 1930年 尾上松之助一派。退社後、芸能界を引退。
紅澤葉子 友野はな
古海はな
(1901-08-28) 1901年8月28日 (1985-04-27) 1985年4月27日(83歳没) 1926年 1927年 浅草オペラの歌劇女優。
マキノ富栄 牧野冨榮 不詳 不詳 1930年 同年 牧野省三の長女。
マキノ智子 牧野惠美子
加藤惠美子
(1907-01-29) 1907年1月29日 (1984-10-20) 1984年10月20日(77歳没) 1925年
1927年
1926年
1931年
牧野省三の四女。旧芸名はマキノ輝子。俳優月形龍之介不倫により一時謹慎。後に復帰し、俳優澤村國太郎と結婚。
松浦築枝 大野月枝
松田月枝
(1907-11-05) 1907年11月5日 1999年 1925年 1931年 旧芸名は松浦月枝。後に映画監督松田定次と結婚。
松葉扶美子[48] 一ノ宮冨美子 (1910-06-26) 1910年6月26日 不詳 1931年 同年 旧芸名は松葉文子
三島洋子 山田美子
近藤美子
(1906-03-21) 1906年3月21日 不詳 1925年
1928年
1926年
1930年
マキノ・プロダクション東京撮影所(マキノ東京派)所属。近藤伊与吉夫人。高松プロへの製作委託打ち切りと共に一時退社(後に復帰)。
水谷蘭子[33] 石野□□ 不詳 不詳 1925年 1929年 後に撮影技師石野誠三と結婚。
湊明子 岩田とし子 1907年6月 不詳 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社。
三保松子 守本かつ子 (1894-09-08) 1894年9月8日 不詳 1926年 1931年 後に俳優守本專一と結婚。
室町三千代 關戸かなめ (1907-02-22) 1907年2月22日 (1939-07-11) 1939年7月11日(32歳没) 1927年 1928年 日本映画プロダクション連盟参加のため退社(実際は体調不良で休養)。
毛利安子 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。
若草美智子 增田奈津繪 (1907-07-27) 1907年7月27日 不詳 1928年 1929年 竹久燁子とも名乗った。勝見庸太郎プロダクションとの提携入社。
若葉蘭子 (不詳) 不詳 不詳 不詳 1931年 詳細不明。1931年度のマキノ・プロダクション御室撮影所員名簿に記載。

雑誌編集

  • 『マキノ』 CINEMA MAGAZIN MAKINO
他の撮影所と同様に宣伝部が月刊発行したファン雑誌で、撮影所を特集し男女スターを祭り上げた。1925年(大正14年)創刊。

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac マキノ映画活動史立命館大学、2008年1月19日閲覧。
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  11. ^ 市川右太衛門 - 日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。
  12. ^ 魔保露志、日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。
  13. ^ 恋の丸橋、日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。
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  15. ^ 侠骨漢 笑ふな金平 前篇、日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。
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  18. ^ 嵐寛寿郎 - 日本映画データベース、2013年6月5日閲覧。
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  25. ^ マキノ[1977], p.172.
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  32. ^ 石割[2000], p.2-3, 8-88, 386-429.
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 橘[1928], p.2-123.
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 橘[1929], p.2-162.
  35. ^ キネマ旬報社[1979], p.28.
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  43. ^ キネマ旬報社[1979], p.534.
  44. ^ キネマ旬報社[1979], p.646.
  45. ^ キネマ旬報社[1980], p.382.
  46. ^ キネマ旬報社[1980], p.448.
  47. ^ キネマ旬報社[1980], p.530.
  48. ^ アサヒグラフ[1925], p.181.

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集