楊恭懿

大元ウルスに仕えた漢人官僚の一人

楊 恭懿(よう いきよう、1225年 - 1294年)は、大元ウルスに仕えた漢人官僚の一人。

生涯 編集

楊恭懿は奉元の出身で博覧強記なことで知られており、金末の混乱期に親とともに郷里を離れた時も学業をやめなかったという[1]。17歳の時に郷里に戻ると、貧困のために働かざるを得なくなったが、それでも暇を見つけて学問を続けた[2]

至元7年(1270年)に至ってクビライの腹心の部下である許衡が召し出そうとしたが、楊恭懿はこれに応じなかった。それでも許衡は自らが左丞になったことを機に、右丞相アントンを通じて正式に楊恭懿を召し出そうとしたが、至元10年(1273年)にも楊恭懿は病を理由にこれを断った。至元11年(1274年)に至って初めて楊恭懿は招聘に応じ、これを受けてクビライは国王和童を遣わし楊恭懿を労った。なお、楊恭懿とを推挙した許衡は詩を重んじる既存の学系に批判的な点で同じ派閥に属しており、『元史』儒学伝は許衡に代表されるこの派閥を「文苑(派)」と呼称している[1]。至元12年(1275年)正月2日、徒単公が科挙を復活させるように進言したが、これに対して楊恭懿は既存の科挙官僚が詩賦に拘り「空文」を作ってきたと批判し、経義・論策に長けた実学に従事する人物を登用するよう進言したと伝えられている。しかしこの頃、シリギの乱が勃発したことで朝廷はモンゴル高原方面への北征に焦点が移り、これを契機としては郷里に帰還した[3]

至元16年(1279年)、安西王相の派遣により再び楊恭懿は中央に戻り、太史院において改暦に従事するよう命じられた。至元17年(1280年)2月、郭守敬とともに完成させた新たな暦は「授時暦」と名付けられ、元末まで用いられることとなった。「授時暦」がクビライに献上された日、クビライは跪く楊恭懿と許衡に対して立ち上がるよう呼びかけ、それまでの労苦を労ったという。この功績により、集賢学士・兼太史院事に任じられた[4]

しかし至元18年(1281年)には再び地位を辞して郷里に帰った。至元20年(1283年)には太子賓客、至元22年(1285年)には昭文館学士・領太史院事、至元29年(1292年)には議中書省事の地位をそれぞれ提示されて再官を請われたものの、いずれも断ったという。その後、至元31年(1294年)に70歳にして亡くなった[5]

脚注 編集

  1. ^ a b 安部 1972, p. 51.
  2. ^ 『元史』巻164列伝51楊恭懿伝,「楊恭懿字元甫、奉元人。力学強記、日数千言、雖従親逃乱、未嘗廃業。年十七、西還、家貧、服労為養。暇則就学、書無不読、尤深於易・礼・春秋、後得朱熹集註四書、歎曰『人倫日用之常、天道性命之妙、皆萃此書矣』。父沒、水漿不入口者五日、居喪尽礼。宣撫司・行省以掌書記辟、不就」
  3. ^ 『元史』巻164列伝51楊恭懿伝,「至元七年、与許衡俱被召、恭懿不至。衡拝中書左丞、日於右相安童前称譽恭懿之賢、丞相以聞。十年、詔遣使召之、以疾不起。十一年、太子下教中書、俾如漢惠聘四皓者以聘恭懿、丞相遣郎中張元智為書致命、乃至京師。既入見、世祖遣国王和童労其遠来、継又親詢其鄉里・族氏・師承・子姓、無不周悉。十二年正月二日、帝御香殿、以大軍南征、使久不至、命筮之、其言秘。侍読学士徒単公履請設取士科、詔与恭懿議之。恭懿言『明詔有謂。士不治経学孔孟之道、日為賦詩空文。斯言誠万世治安之本。今欲取士、宜敕有司、挙有行檢・通経史之士、使無投牒自售、試以経義・論策。夫既従事実学、則士風還淳、民俗趨厚、国家得才矣』。奏入、帝善之。会北征、恭懿遂帰田里」
  4. ^ 『元史』巻164列伝51楊恭懿伝,「十六年、詔安西王相敦遣赴闕。入見、詔於太史院改暦。十七年二月、進奏曰『臣等徧考自漢以来暦書四十餘家、精思推算、旧儀難用、而新者未備、故日行盈縮、月行遲疾、五行周天、其詳皆未精察。今權以新儀木表、与旧儀所測相較、得今歳冬至晷景及日躔所在、与列舍分度之差、大都北極之高下、晝夜刻長短、参以古制、創立新法、推算成辛巳暦。雖或未精、然比之前改暦者、附会暦元、更立日法、全踵故習、顧亦無愧。然必每歳測驗修改、積三十年、庶尽其法。可使如三代日官、世專其職、測驗良久、無改歳之事矣』。又合朔議曰、日行歴四時一周、謂之一歳。月踰一周、復与日合、謂之一月。言一月之始、日月相合、故謂合朔。自秦廃暦紀、漢太初止用平朔法、大小相間、或有二大者、故日食多在晦日或二日、測驗時刻亦鮮中。宋何承天測驗四十餘年、進元嘉暦、始以月行遲速定小餘以正朔望、使食必在朔、名定朔法、有三大二小、時以異旧法、罷之。梁虞𠠎造大同暦、隋劉焯造皇極暦、皆用定朔、為時所阻。唐傅仁均造戊寅暦、定朔始得行。貞観十九年、四月頻大、人皆異之、竟改従平朔。李淳風造麟徳暦、雖不用平朔、遇四大則避人言、以平朔間之、又希合当世、為進朔法、使無元日之食。至一行造大衍暦、謂『天事誠密、四大三小何傷』」。誠為確論、然亦循常不改。臣等更造新暦、一依前賢定論、推算皆改従実。今十九年暦、自八月後、四月併大、実日月合朔之数也。詳見郭守敬伝。是日、方列跪、未読奏、帝命許衡及恭懿起、曰『卿二老、毋自労也』。授集賢学士、兼太史院事」
  5. ^ 『元史』巻164列伝51楊恭懿伝,「十八年、辞帰。二十年、以太子賓客召。二十二年、以昭文館学士・領太史院事召。二十九年、以議中書省事召。皆不行。三十一年、卒、年七十」

参考文献 編集

  • 元史』巻164列伝51楊恭懿伝
  • 新元史』巻171列伝68楊恭懿伝
  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年