横尾 輝吉(よこお てるきち、安政2年5月4日[1]1855年6月17日) - 大正8年(1919年5月21日)は、日本の衆議院議員憲政本党立憲国民党立憲同志会憲政会)。

横尾輝吉

経歴 編集

下野国都賀郡鹿沼宿(現在の栃木県鹿沼市)に角田善平の子として生まれ、粟野村の先代横尾輝吉の養子となった[2]自由民権運動が活発になると、都賀演説会を興して会長となった。また東京専門学校(現在の早稲田大学)・立教学校(現在の立教大学)で学び、島田三郎の紹介で大隈重信の知遇を得、立憲改進党創設にあたって総務委員を務めた[1]1882年明治15年)より栃木県会議員を務め、1892年(明治25年)には副議長に選出された[3]。その後、1894年(明治27年)と1896年(明治29年)の2回、議長に選出された[3]

1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。また同年には立憲改進党の後継政党の憲政本党の機関紙「新下野」を発行している[1]

その後、再び県会議員となり、1911年(明治44年)にも議長を務めた[1]

1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙で再選され、第12回衆議院議員総選挙でも当選した。

脚注 編集

  1. ^ a b c d 『現代日本の政治家』立憲同志会pp.148-151
  2. ^ 『人事興信録』
  3. ^ a b 『新選代議士列伝』p.112

参考文献 編集

  • 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。 
  • 細井肇『現代日本の政治家』国光社、1916年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。