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殷 令名(いん れいめい、生年不詳 - 596年[1])は、初唐に活躍した能書である。

目次

概説編集

陳郡(現河南省)の人で、陳の司農卿・殷不害の子[2]欧陽詢虞世南と同じ初唐の貞観時代に活躍した能書とされている。令名の子、仲容(ちゅうよう)も高宗の時代から則天武后の時代にかけて能書として知られる。殷氏は名家で顔家と姻戚になり[2]、令名の姉は欧陽詢の夫人と伝えられている[3]

令名の書跡としては、楷書体の『裴鏡民碑』(はいきょうみんひ)のみが残存する。楊守敬康有為はこのを非常に高く評価しており、「欧陽詢と虞世南の優れたところを兼ね備えている。」(『平碑記』)、「清豊端美・血肉豊澤」(『広芸舟双楫』)などと評している。しかし、ひとり翁方綱は、「その書は欧虞に具体せるも、風韻に於いては及ばず。」(『復初斎集』)としている[2]

裴鏡民碑編集

正式には『益州刺史裴鏡民碑』という[2]。建碑は貞観11年(637年)。裴鏡民は『隋書』にその名を見ないが、碑文によると、は君倩で、初めは北周、ついでに仕え、晩年、益州総管府司馬(えきしゅうそうかんふしば)となった。開皇16年(596年)、西南夷の追討に総司令官として向かったとき、陣没したといわれている。没後42年目に現在の山西省聞喜県に在った裴氏の祠堂に建てられたのがこの碑である。

撰文は李百薬で、書は字画精妙で欧陽詢虞世南に劣らず、やや虞世南に近い楷書である[1]。字大は、3cm弱[3]

脚注編集

  1. ^ a b 木村卜堂 P.141
  2. ^ a b c d 辞典(飯島) P.41
  3. ^ a b 藤原鶴来 P.104 - 105

参考文献編集

関連項目編集