裴 漢(はい かん、514年 - 572年)は、西魏から北周にかけての政治家は仲霄。本貫河東郡聞喜県裴寛の弟。

経歴 編集

裴静慮の子として生まれた。532年、員外散騎侍郎を初任とした。539年、大丞相府士曹行参軍となり、墨曹参軍に補任された。545年李遠弘農に駐屯すると、裴漢はその下で司馬となった。安東将軍・銀青光禄大夫・府都上士の位を加えられた。まもなく司車路下大夫に転じた。工部の郭彦や太府の高賓らとともに格令の議論に参加した。帥都督の位を加えられた。宇文護が北周の政権を掌握すると、裴漢はかれにへつらわず、8年のあいだ職任を変わらなかった。天和年間、司宗の孫恕や典祀の薛慎同らとともに八使となり、庶民生活を巡察した。570年、車騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。572年、死去した。享年は59。晋州刺史の位を追贈された。

子の裴鏡民は、譚国公宇文会(宇文護の子)の下で記室参軍となった。後に宋王宇文實(明帝の子)の侍読を経て、記室となり、司録に転じた。578年に吏部上士となり、580年に春官府都上士となった。

伝記資料 編集