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永田 キング(ながた きんぐ、1910年8月[1] - 没年不詳)は、昭和期のコメディアン、喜劇俳優漫才師。戦前は主に吉本興業東京吉本)所属。本名不詳。

プロフィール編集

新国劇に憧れたのが芸界入りのきっかけ、それ以前は大空ヒットによると体操選手だったという。戦前から妻の妹のミス・エロ子(のちの「ミス・ペテ子」)と「永田キング・ミスエロ子」で運動神経を生かした動きの多い漫才を始める、この頃のキャッチフレーズは「スポーツ漫才」であった。のちに発展させる形で漫才や軽演劇レヴューを織り込んだ「永田キングとその漫党」(のちの「永田キング一党」)を立ち上げる、この頃の舞台の作・演出のほとんどがキングであった。大阪、京都など全国で人気を博し、1934年2月には「爆笑王キング万歳」で映画に初主演している。

その後1935年5月に横浜伊勢佐木町の横浜花月劇場(吉本興業直営)に出演。以降吉本興業東京吉本)専属として、吉本の小屋に出演する。1936年10月には「かっぽれ人生」で脚本、原作、主演。1937年10月から浅草の浅草花月で始まった「吉本ショウ」に出演。戦時中に新興キネマの演芸部に移った時期もありこの頃は新興の拠点だった京都に住まいがあり毎回ミスワカナ・玉松一郎らとともに新作の漫才などの舞台を勤めた。戦後ヒロポンの副作用で激太り(症状が重くなり日劇ミュージックホールの楽屋で倒れたこともあった)、戦後の混乱期などで引退同然だったが、野球コントをはじめる。伊藤道郎の勧めで渡米しアメリカの子供向けの番組「ホリデー・イン・ジャパン」に出演などをし、またロサンゼルスでも野球コントを披露した、その後、息子3人で「永田キングチーム」の名で占領軍、進駐軍相手に野球コントをしていたり、日劇ミュージックホールの出演を昭和30年まで続けた。当り芸にマルクス兄弟グルーチョ・マルクスの変装、メイク、動きで評判を呼び「和製マルクス」を自称した。1967年4月にNHK土曜ひる席に弟子らと出演した映像がある[2]。没年未詳、1960年代後半。

実の姉が漫才の流行亭歌麿・八千代(のちの流行亭歌麿・やちよ)の流行亭やちよでコンビ名もキングが名付けた、実の弟に同じキングと一党などで活躍した永田英治がいた。一党出身者にはあきれたぼういずで活躍した川田晴久町田金嶺、また漫才のアザブラブ・伸(伸はのちに司会漫談で活躍)、戦後宝塚新芸座吉本新喜劇松竹新喜劇などで活躍した花和幸助は「思いを達し」をもじった重井龍志の名で一党に属し筆頭幹部であった。弟子にキン坊、小キングは星ギン子・ララ子のギン子の夫でその実子は横山ホットブラザーズのメンバーであった横山洋二、チエ子、ボンヂほか。大空ヒット・三空ますみの大空ヒットも若い頃一緒に旅回りで一座をともにした。

参考文献編集

  • 地球の上に朝が来る 川田晴久読本(中央公論社、2003年)
  • 大阪笑話史(秋田實、編集工房ノア、1984年)
  • 漫才太平記―かみがた演芸(吉田留三郎、三和図書、1964年)
  • 漫才七転び八起き(大空ヒット、青磁社、1989年)

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集