沈璞(しん はく、416年 - 453年)は、南朝宋官僚は道真。本貫呉興郡武康県

経歴 編集

沈林子の末子として生まれた。若くして学問を好み、文章を得意とした。弱冠にして呉興郡太守王韶之に召されたが、任官しなかった。張邵が呉興郡太守となると、その下で主簿となった。さらに南平王劉鑠の下で左常侍をつとめた。

元嘉17年(440年)、始興王劉濬揚州刺史となると、沈璞はその下で揚州主簿となった。劉濬はまだ幼かったため、范曄が長史として揚州の事務を代行し、沈璞が范曄を補佐する態勢をとった。

元嘉22年(445年)、范曄が処刑されると、沈璞が揚州の事務を一手に引き受けた。劉濬が成長してくると、沈璞は辞任を求めて文帝に聞き入れられたが、もとより文帝の望むところではなく、またも劉濬の下で始興国大農となり、まもなく秣陵県令に任じられた。元嘉26年(449年)、劉濬が南徐州刺史となると、沈璞はその下で中兵参軍となった。まもなく宣威将軍・盱眙郡太守に転じた。

元嘉27年(450年)、文帝が北魏に対する北伐の軍を起こすと、沈璞は城塁を修理し、塩や米を備蓄した。北伐が挫折し、北魏の太武帝が数十万の兵を率いて南進してくると、盱眙は危地に陥った。沈璞は昆陽の戦い合肥の戦いを引き合いに出して、味方の士気を鼓舞しつつ、2000人の精鋭を集め、さらに敗走してきた臧質を迎え入れた。北魏の大軍に包囲を受けながら、沈璞は臧質とともに盱眙城を守り抜き、魏兵に消耗を強いた。元嘉28年(451年)、魏軍が撤退すると、沈璞は文帝に守城の功を嘉され、報賞を受けた。建康に召還されて、淮南郡太守に任じられ、たびたび文帝の宴に招かれた。中書郎に欠員があったため、これに沈璞を当てる人事案があったが、この人事は結局実行されなかった。

元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、沈璞は文帝の死を嘆いて病に倒れた。孝武帝が劉劭打倒の軍を起こして建康を占領すると、沈璞は顔竣の讒言を信じた孝武帝に殺害された。享年は38。

子に沈約があった。

伝記資料 編集

  • 宋書』巻100 列伝第60
  • 南史』巻57 列伝第47