泉 企(泉仚、せん き、生年不詳 - 537年)は、北魏から西魏にかけての官僚軍人は思道。本貫上庸郡豊陽県

経歴 編集

北魏の建節将軍・宜陽郡太守の泉安志の子として生まれた。9歳のとき父を失い、喪が明けると、丹水伯の爵位を嗣いだ。12歳のとき、郷里の皇平・陳合ら300人あまりが洛州を訪れ、泉企を県令とするよう請願した。洛州が朝廷に報告すると、宣武帝は請願を容れて泉企を豊陽県令に任じた。まもなく母が死去したため、泉企は辞職して喪に服した。豊陽県の父老は泉企の復職を求めて請願し、またこれも許された。泉企は豊陽県令に戻り、討寇将軍の号を加えられた。

525年孝昌元年)、仮節・龍驤将軍・洛州別将の任を加えられた。まもなく上洛郡太守に任じられた。527年(孝昌3年)、蕭宝寅関中で反乱を起こし、その部下の郭子恢が潼関を襲撃すると、泉企は郷兵3000人を率いてこれを撃退した。功績により征虜将軍の号を受けた。また蕭宝寅が兵1万人を青泥に派遣して、巴人を扇動し、上洛郡を奪取しようと図った。上洛郡の豪族の泉氏・杜氏の二姓がこれに呼応した。泉企は洛州刺史董紹とともにひそかに兵を進めて襲撃をかけると、二姓は敗走し、蕭宝寅の軍もまた撃退した。泉企は左将軍析州刺史に転じ、涇陽県伯の別封を受けた。

528年永安元年)、南朝梁曹義宗・王玄真らが北魏の荊州に進攻してくると、泉企は持節・都督を加えられ、兵を率いて荊州の救援に向かった。王玄真と順陽で遭遇して、これを撃破した。撫軍将軍・使持節となり、仮の鎮南将軍・東雍州刺史に任じられ、爵位を侯に進めた。泉企の統治下に楊羊皮という者がいて、太保楊椿の従弟にあたっており、楊椿の権勢をたのんで、民衆の財産を侵害していた。太守や長官たちも権臣との対立を恐れて、あえて楊羊皮を告発しようとはしなかった。しかし泉企は楊羊皮を収監し、処刑しようとした。楊椿の一族も外聞を恥じて、朝廷に慈悲を請うばかりであった。泉企は東雍州に在任すること5年、清廉倹約の統治で知られた。蜀の張国雋が仲間を集めて州県を横行すると、泉企はこれを捕らえて処刑した。孝武帝の初年、車騎将軍・左光禄大夫の位を加えられた。

孝武帝は高歓の専横を憎んで、関中への遷都を計画し、泉企に山南の事務を委ねようと、都督洛州諸軍事・洛州刺史に任じた。ほどなく孝武帝は洛陽を脱出して、長安へと向かった。高歓が兵を率いて潼関に入ると、泉企は子の泉元礼に5000人を与えて、北方の大谷に進出させて高歓の軍を阻ませたため、高歓はあえて進軍しようとしなかった。上洛郡の泉岳やその弟の泉猛略および拒陽県の杜窋らは、洛州を占拠して高歓に呼応する計画を立てた。泉企がこれを察知すると、泉岳と泉猛略らを殺して、その首級を長安に送った。杜窋は逃亡して東魏に入った。泉企は前後の勲功により車騎大将軍・儀同三司の位を受けた。535年大統元年)、西魏が建国されると、泉企は開府儀同三司の位を加えられ、尚書右僕射を兼ね、爵位は上洛郡公に進んだ。

537年(大統3年)、東魏の高昂が兵を率いて洛州の州城(上洛城)を包囲した。十数日の抵抗の後、上洛は陥落し、泉企は東魏軍に捕らえられた。に連行され、まもなく死去した。

子女 編集

伝記資料 編集