浅野 長厚(あさの ながあつ)は、江戸時代後期の大名安芸国広島新田藩7代(最後の)藩主。官位従五位下近江守

 
浅野 長厚
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保14年2月26日1843年3月26日
死没 明治6年(1873年8月28日
改名 万五郎、為五郎、長厚
官位 従五位下近江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜
安芸広島新田藩
氏族 浅野氏
父母 浅野懋績浅野長訓
兄弟 長厚守夫長之中川久任、益子、光ら
浅野懋昭
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略歴 編集

浅野家分家・浅野懋績の四男として広島にて誕生。幼名は万五郎、為五郎。早くに伯父の浅野長訓の養子となった。

安政5年(1858年)9月、新田藩主であった長訓が本家の広島藩を継いて11代藩主となり、懋昭の子(長厚の従兄)の長興(のちの長勲)が新田藩主を継ぐも、長興も広島藩主として本家に転出したため、文久2年(1862年)12月24日、長厚が広島新田藩主となった。文久3年12月16日、安芸高田郡の吉田に陣屋を構える許可を得る。幕末期の動乱では、本家と行動を共にしている。

明治2年(1869年)12月26日、版籍奉還により本家と所領を合併し、新田藩は廃藩となった。また、華族となることも辞退した。明治6年(1873年)8月28日、31歳で死去した。

浅野懋績 編集

父の浅野懋績(あさの としつぐ、文化13年(1816年9月15日 - 明治8年(1875年3月9日)は、広島藩第7代藩主浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の子で、11代藩主長訓の実弟にあたる。幕末から明治にかけて画家として活動し、学雲林の名でも知られた[1]

系譜 編集

脚注 編集