海のシルクロード

海のシルクロード(うみのシルクロード、英語: Silk Road of the Sea)とは、2世紀ごろから16世紀ごろまで存在した海上交易路の呼称。中国の南から海に乗り出し、東シナ海南シナ海インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路。海のシルクロードの起点は福建省泉州市

シルクロードの主要なルートのうち、南が海のシルクロードである。

ただし「シルクロード」の概念は一義的ではなく、広義にはユーラシア大陸を通る東西の交通路の総称であり、具体的には北方の草原地帯のルートである草原の道、中央の乾燥地帯のルートであるオアシスの道、インド南端を通る海の道の3つのルートをいい、その中で南のインド洋などを通る道のりのことを主に指す。

沿革編集

 
青い線が海の道

海のシルクロードの歴史は古く、すでにバビロニアプトレマイオス朝エジプト王国の時代から古代オリエント紅海のなど港からインドと交易を行っていたといわれている。また、エジプトを征服した古代ローマ帝国(共和政ローマローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドの王朝・サータヴァーハナ朝との交易のために港湾都市アリカメドゥ英語版(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達した。後漢書西域伝「第七十八 大秦国」は、「桓帝延熹九年(166年)に大秦国王の安敦が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙犀角玳瑁を献上した。初めて(大秦と漢は)交流を持つことができた」と記す。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。

そのため、本格的に「海のシルクロード」の交易路が開始されるのは、紀元後のことであった。その主な主役はムスリムの商人たちであった。

7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人ペルシア人イラン人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ(「シルクロード」の名の由来)、広州などに居留地(蕃坊)を築く。しかし、中国のイスラム教徒居留地は、末に広州大虐殺黄巣の乱によって大打撃を受け、衰退を余儀なくされた。

しかし、代になると再びムスリムの商人たちは、中国各地(泉州市福州市など)に進出し、貿易を活発に行い、その活発な海洋交易は、代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくったのだった。この時期にはイブン・バットゥータも泉州、福州を通って大都北京)を訪れたし、マルコ・ポーロもこの道を通っている。

元王朝が滅びると、中国では、王朝が勃興した。朝貢貿易しか認めない海禁政策を取った。そのため、鄭和艦隊で知られるように、海上交易路を海賊から保護した。鄭和はアフリカのマリンディまで航海している[1]。鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれ、『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われる[2]。出土品や現代の検証から、全長50メートル前後という説もある[3]。またこのほか、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されている[4]。この大艦隊の真の目的は朝貢貿易にあったのであり、鄭和の船団の積荷に青花が含まれ、貿易が行われていたとも言われている。その事実は、イスタンブールのトプカプ宮殿やイラン北部のアルデビル・モスクのコレクションに残る大量の青花磁器から推察できる。

 
鄭和艦隊の進路

その後インド洋は、オスマン帝国マムルーク朝ヴェネツィア共和国などの国家が制海権を握っていたが、16世紀喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年ディーウ沖海戦で敗れ、インド南部の商人やヴェネツィアの商人たちの貿易や、イスラム商人達の交易ルートは衰え、それ以降は、キリスト教徒達(ポルトガル海上帝国やスペイン海上帝国)の植民地支配を背景とした経済活動が中心となっていった。

しかし、1622年イングランド王国サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。

19世紀に、1809年ペルシャ湾戦役の結果、イギリスが制海権を握った。植民地支配を背景とした経済活動が中心となっていった。

現在編集

古くからシルクロードの一部であったインド洋の海路は、近代中国初の外洋海軍を目指す中国人民解放軍海軍が戦略的な関心を持っている戦略的チョークポイントであるバブ・エル・マンデブ海峡マラッカ海峡ホルムズ海峡ロンボク海峡などを通っている。この表現はアメリカ国防総省部内報告書の"Energy Futures in Asia"で使われていた[5]

中華人民共和国真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。

脚注編集

  1. ^ 「世界航海史上の先駆者 鄭和」(新・人と歴史 拡大版21)p74 寺田隆信 清水書院 2017年8月30日初版第1刷
  2. ^ http://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/common/images/q_and_a1.pdf を参照。ちなみにヴァスコ・ダ・ガマの船団は120t級が3隻、総乗組員は170名、コロンブスの船団は250t級が3隻、総乗組員は88名である。
  3. ^ 山形 2004, pp. 71-75.
  4. ^ 『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』 p101-102
  5. ^ China builds up strategic sea lanes

関連項目編集