清水 行宗(しみず ゆきむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備中国国人である備中清水氏に生まれ、小早川隆景に仕える。父は清水宗治の兄である清水宗知(月清入道)。子に清水元親

 
清水行宗
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 慶長元年4月13日1596年5月10日[1]
別名 通称:右衛門尉
主君 清水宗治小早川隆景
氏族 備中清水氏
父母 父:清水宗知
元親
テンプレートを表示

生涯 編集

備中国国人である清水宗治の兄・清水宗知(月清入道)の嫡男として生まれる。

天正6年(1578年)の播磨国上月城の戦いにおいて、小早川隆景に従って武功を挙げた。同年6月2日、隆景は井上春忠を使者として派遣し、行宗に感状を与えた。

天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにおいては、父の月清入道、叔父の清水宗治難波宗忠らと共に備中高松城に籠城したが、羽柴秀吉の水攻めにより、城兵の助命を条件として開城。6月4日に父・月清入道、清水宗治、難波宗忠、小早川隆景からの援将・末近信賀切腹した。生き残った行宗に対し、小早川隆景は6月12日に書状を送り、清水宗治、月清入道、行宗らの比類無き覚悟を称賛し、毛利輝元へも申し上げる旨を述べている。以後、行宗は小早川隆景に仕え、清水宗治の妻子らの養育も命じられた。

天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、従弟の景治や嫡男の元親と共に小早川隆景に従って朝鮮へ渡り、武功によって隆景から感状を与えられた。

慶長元年(1596年4月13日[1]に死去し、嫡男の元親が後を継いだ。

脚注 編集

  1. ^ a b 没年月日は、慶長2年4月13日1597年5月28日)とも。

参考文献 編集