源国信
平安時代後期の公卿・歌人。源顕房の四男または三男。正二位・権中納言。子に源俊国(1106-、国能、従五位下、越前守、肥後守)、延信(園城寺、法眼)、仁信(園城寺、阿闍梨)、信智
源 国信(みなもと の くにざね)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、右大臣・源顕房の四男または三男。官位は正二位・権中納言。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 延久元年(1069年) |
死没 | 天永2年1月10日(1111年2月26日) |
別名 | 坊城中納言(号)、正字:國信 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源顕房、母:藤原良任の娘 |
兄弟 | 賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、相覚、顕雅、定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房、雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿 |
妻 | 高階泰仲の娘、高階経成の娘 |
子 | 顕国、国教、雅国、信時、俊国、信顕、延信、仁信、信智、信子、俊子、女子 |
経歴
編集従五位下への叙爵後、承徳3年(1079年)に信濃権守に任ぜられる。永保元年(1081年)左兵衛佐、永保3年(1083年)左近衛少将と武官を歴任。同年従五位上に叙せられている。美作権介を経て、応徳3年(1086年)正五位下に叙せられた。
応徳3年(1086年)の堀河天皇即位に際して蔵人に任ぜられたのを皮切りに、寛治7年(1093年)篤子内親王の立后に際して中宮権亮、翌寛治8年(1094年)には蔵人頭に任ぜられる等、堀河天皇に近臣として仕えた[1]。その後も堀河朝において要職を占め、承徳2年(1098年)参議に任ぜられて公卿に列し、康和4年(1102年)権中納言、康和5年(1103年)正二位に至った。
堀河院の歌壇で活躍し、康和2年(1100年)「源宰相中将家和歌合」を主催、また『堀河百首』を編纂した。金葉和歌集初出、以後37首が勅撰和歌集に採られる。
天永元年(1110年)11月28日に鳥羽に参った折に俄かに飲水病を発する。日を追って重くなり、翌天永2年(1111年)正月9日の寅の刻以前に出家[2]。ついで薨去。享年43。また、源師時とは兄弟のような関係であったという[3]。
官歴
編集※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。
- 時期不詳:従五位下に叙爵。
- 承徳3年(1079年)11月:信濃権守に任ず。
- 永保元年(1081年)8月8日:左兵衛佐に任ず[4]。
- 永保3年(1083年)正月:従五位上に叙す(労)。2月:右近衛少将に任ず。4月:左近衛少将に遷る。
- 永保4年(1084年)正月:美作権介を兼ぬ。
- 応徳3年(1086年)正月:正五位下に叙す(労)。
- 応徳4年(1087年)正月14日:五位蔵人に補す。11月26日:更に蔵人に補す。
- 寛治2年(1088年)正月7日:従四位下に叙す(労)。
- 寛治3年(1089年)正月:従四位上に叙す(無品媞子内親王御給)。備後介を兼ぬ。
- 寛治5年(1091年)正月:正四位下に叙す(院御給)。左近衛中将に転ず。4月:齋院長官を兼ぬ。
- 寛治7年(1093年)2月:中宮権亮を兼ぬ。長官を止む。
- 寛治8年(1094年)2月:美作権守を兼ぬ。6月13日:蔵人頭に補す。6月22日:禁色を聴す[5]。
- 永長2年(1097年)4月:内蔵頭を兼ぬ。頭を退く。
- 承徳2年(1098年)正月:参議に任ず。左中将如元。
- 承徳3年(1099年)正月3日:従三位に叙す(院行幸賞)。播磨権守を兼ぬ。
- 康和2年(1100年)7月23日:正三位に叙す(造宮行事賞)。
- 康和4年(1102年)正月:権中納言に任ず。2月20日:従二位に叙す(御賀院司賞)。
- 康和5年(1103年)正月2日:正二位に叙す(行幸鳥羽院行幸賞。院司)。10月26日:斎院勅別当に補す。
- 天永2年(1111年)正月10日:病に依り出家。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137