源 成雅(みなもと の なりまさ)は、平安時代後期の貴族村上源氏陸奥守源信雅の四男。官位正四位下左近衛中将近江中将と号す。

 
源成雅
時代 平安時代後期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 成雅→蓮浄(法名)
別名 近江中将、近江中将入道
官位 正四位下左近衛中将
主君 崇徳上皇後白河法皇
氏族 村上源氏
父母 父:源信雅、母:源国明または為家の娘
兄弟 成雅雅仲忠信顕成頼季季定長雅遠雅、房覚、円雲、真寛、寛顕、平忠盛妾、藤原頼長室、藤原光忠室、大炊頭為重室
源憲俊の娘
有雅?
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経歴

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保延4年(1138年左衛門佐永治元年(1141年右近衛権少将、久安5年(1149年)左近衛権中将に任ぜられるなど、鳥羽院政期中期から後期にかけて武官を歴任する。この間の康治2年(1143年)には散位・藤原頼輔との闘争事件を起こし解官の処分を受けるが、2ヶ月ほどで還任されている。

藤原忠実の恋人であったが[1]、忠実の子であり成雅の姉妹が妻となっていた藤原頼長に近侍し、頼長とも関係を持っていたという(『台記』)。保元元年(1156年保元の乱が発生すると、成雅は頼長に従って崇徳上皇方に参加する。上皇方が後白河天皇方に敗れると、出家して(法名蓮浄)恭順の意を示すが、赦されず越後国への流罪に処された。

数年を経て応保年間(1161年-1163年)には帰洛が許され[2]、その後かつての敵であった後白河院の近習となった[3]。僧形となっていたことから、近江中将入道と呼ばれたという。降って安元3年(1177年鹿ケ谷の陰謀に加担した咎で捕らえられ、再度佐渡国に配流された。

官歴

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注記のないものは『本朝世紀』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 今鏡』村上の源氏 第七 武蔵野の草
  2. ^ 『尊卑分脈』
  3. ^ 梁塵秘抄
  4. ^ 『中右記』
  5. ^ a b 『近衛府補任』
  6. ^ a b c 『兵範記』

参考文献

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