源重遠

平安時代末期の武将

源 重遠(みなもと の しげとお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将源重実の子[1]尾張源氏の祖。

 
源重遠
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 浦野四郎
官位 兵庫允信濃
氏族 清和源氏満政流(尾張源氏
父母 父:源重実、母:不詳
養父:源重宗
兄弟 重遠重成、重忠、重貞(重定)、重頼時成
重近、実宗、仲重、源実
源義家
浦野重直葦敷重頼小河重房山田重弘
テンプレートを表示

経歴

編集

尊卑分脈』によると、重遠の父・源重実は鳥羽院武者所の四天王の一人とまで言われる人物。

1156年-保元の乱では、後白河天皇陣営に参加。

1160年-平治の乱では、源義朝陣営に加わり敗れることになる。美濃国子康森において落武者狩りに遭い重実は自刃。これにより、重遠は美濃国から尾張国春日井郡浦野村(現・愛知県春日井市)に遷され、浦野を名乗るようになった。[2]

また、養父(祖父)重宗の追討に関与した源義家(八幡太郎)の娘を妻とした。

1185年文治元年)4月-近江国に住む前に出羽守となっており、重遠はすでに80歳を超えていたが、源頼朝のもとに参上。頼朝は累代の家人である重遠の志に感嘆し、重遠の舎弟十郎、並びに僧の蓮仁らに扶持を与えた。この時、重遠は平治の乱の後も源氏譜代の家人として平家に従わず、頼朝が平家打倒の兵を挙げたのを喜んだが、京の東国武士の乱暴は平家時代以上に酷く、そのために生活が苦しい旨を頼朝に訴えた。頼朝は彼の訴えを認め、その権利や財産を安堵した。[3]

事跡に不明瞭な部分が多いものの、後に尾張を本拠とする豪族として史料上に現れる山田氏小河氏水野氏)、高田氏三河足助氏などは全てこの重遠に系譜を連ねている。

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ 尊卑分脈』では重実の長子としているが、同時に弟の重成、重忠、重貞にそれぞれ「一男」「二男」「三男」と記す。
  2. ^ 浦野一族の発祥と系譜”. 2023年1月21日閲覧。
  3. ^ 清和源氏 系図コネクション”. 2023年1月21日閲覧。

関連項目

編集