滇良(てんりょう、拼音:Diānliáng、生没年不詳)は、中国後漢時代の族の首領のひとり。焼当玄孫

生涯 編集

滇良が立って焼当羌[1]ごう首領の意)となる。時にの末期であり、王莽の失政によって四夷は次々と中国に侵入するようになった。そして王莽が殺されて新が崩壊すると、羌族は更始赤眉の乱に乗じて金城隴西を寇じた。群雄の一人である隗囂(かいごう)はこれを討つことができなかったが、逆に彼らを手なづけることに成功した。

建武9年(33年)、隗囂が死ぬと、司徒掾班彪光武帝(在位:25年 - 57年)に献策して再び護羌校尉を復活させ、牛邯を護羌校尉に任命した。しかし牛邯が死去すると、護羌校尉はまた廃止される。

建武10年(34年)、先零の豪は諸種と結託し、再び金城と隴西を寇した。光武帝は中郎将来歙らを遣わしてこれを撃破させた。

建武11年(35年)夏、先零種は臨洮を寇し、隴西太守馬援によって撃破され、降伏した。彼らは天水・隴西・扶風の3郡に移住させられた。明年(36年)、武都郡の参狼羌が叛いたが、再び馬援によって降伏させられた。

脚注 編集

  1. ^ 焼当の子孫の部落。

参考資料 編集

先代
焼当(4代前)
の首領
? - ?
次代
滇吾