熊谷 就真(くまがい なりざね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏吉川氏家臣。安芸国国人熊谷信直の五男(末子)。

 
熊谷就真
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文19年(1550年
死没 寛永元年9月16日1624年10月27日
別名 通称:小四郎
:玄要
官位 玄蕃允
主君 毛利元就輝元吉川広家
周防岩国領
氏族 桓武平氏国香流熊谷氏
父母 父:熊谷信直
母:伴大方武田好清の娘)
兄弟 高直直清広真三須隆経就真
新庄局吉川元春正室)、天野元明室、
山内隆通室、香川広景正室、野間隆実正室
男子、直興
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生涯 編集

天文19年(1550年)、安芸国国人熊谷信直の五男(末子)として生まれる。毛利元就に仕え、永禄10年(1567年8月2日に「就」の偏諱を与えられて「就真」と名乗った。

永禄12年(1569年12月18日、就真の愁訴や就真の生母・伴大方の働きかけの結果、元就と輝元から所領を与えることを約束され、元亀元年(1570年)5月に野間隆実の旧領・周防国岩国において90貫の地を与えられた。

天正6年(1578年1月21日に輝元から「玄蕃允」に任じられ、天正7年(1579年)には備中国佐井田城の在番を命じられた。

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、次男の直興と共に朝鮮に渡海し武功を挙げる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が周防長門2ヶ国に減封され、吉川広家岩国領主となると、熊谷氏吉川氏の姻族であったことから[1]吉川広家寄騎として付けられる。

寛永元年(1624年9月16日周防国熊毛郡小周防[2]で死去。享年75。次男の直興が跡を継いだ。

脚注 編集

  1. ^ 就真の姉の新庄局吉川元春に嫁ぎ、広家らの母となっている。
  2. ^ 現在の山口県光市小周防。

参考資料 編集