熊谷 鉄太郎(くまがい てつたろう、1883年5月28日 - 1979年7月11日)は、横浜訓盲学校で日本初の盲人教師になった後、牧師となった。

生涯 編集

熊谷鉄太郎は、1883年明治16年)5月28日北海道瀬棚郡美谷村で生まれた。祖父金次郎はにしん漁の網元の支配人をしていた。しかし、父酉蔵はバクチや酒に身を持ち崩し、母は家を出た。父の非行はやまず祖父の資産を取り崩し、祖父は支配人を辞して、一家は祖父の郷里青森へ移った。1886年には全国で天然痘が大流行し、鉄太郎は重症になり、一命を取り留めたが失明した。1895年から3年間、青森で高井軒益という鍼医に入門した。高井は、近代医学をもとにした新しい鍼按を学ばせようと、門弟を医師にも学ばせていた。この頃、熊谷は点字を知り、読書できる喜びと書くことのできる喜びを知る。1899年に札幌に盲学校ができたという新聞記事を知り、決意して札幌に出た。校長の大沢にも会ったが、盲学校はまだ建築の募金集めにとりかかったところだった。失意の熊谷に、大沢は教会に行くことを勧めた。1900年3月に教会に行った熊谷は、初めて行った自分を「兄弟」として受け入れてくれた教会の温かさにふれて、同年8月に札幌教会で洗礼を受けるに至る。教会員有志の援助によって、1902年東京盲唖学校(現筑波大学附属視覚特別支援学校)尋常科に入学、1906年には東京盲唖学校鍼按科を卒業し、横浜訓盲学校の教師になった。熊谷の志望はさらに高等教育に向かい、1913年大正2年)に関西学院神学部に入学し、1916年3月に卒業した。熊谷の関西学院入学は、日本で最初の盲人の大学入学であった。在学中、熊谷は好本督の援助を受けた。卒業後、熊谷は大阪市市岡伝道所の牧師になった。1918年、級友の妹だった福永みねと結婚する。その後、柳井宇部広島西部・御影[要曖昧さ回避]の各教会で牧師を務めた。1943年昭和18年)、外務省の委嘱によりバンコク盲学校の管理者になるが、戦争激化により翌年帰国した。その後、国東佐賀関の牧師を務め、1952年に牧師を隠退した。1959年青梅市の隠退牧師老人ホーム信愛荘に、妻とともに入居した。1971年にその妻が亡くなる。1979年7月11日 逝去、96歳だった。

  • 『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』で、昭和時代に活躍した著名な盲人100人の一人に挙げられている。

年譜 編集

  • 1883年(明治16年)5月28日 北海道美谷村で生まれる
  • 1886年 天然痘のために失明する
  • 1895年 この年から3年間、青森で鍼按を学ぶ
  • 1900年8月 札幌教会で洗礼を受ける
  • 1902年 東京盲唖学校尋常科に入学
  • 1906年 東京盲唖学校鍼按科を卒業し、横浜訓盲学校の教師になる
  • 1913年(大正2年) 関西学院神学部に入学する
  • 1916年 関西学院神学部を卒業し、大阪市市岡伝道所の牧師になる。その後、柳井・宇部・広島西部・御影・国東・佐賀関の各教会で牧師を務める
  • 1918年 福永みねと結婚し、その後、2男2女をもうける
  • 1943年(昭和18年) 外務省の委嘱によりバンコク盲学校の管理者になるが、戦争激化により翌年帰国する
  • 1959年 青梅市の隠退牧師老人ホーム信愛荘に入居
  • 1979年7月11日 逝去、享年96

著書 編集

  • 『薄明の記憶』(自伝)

参考文献 編集

  • 『道ひとすじ―昭和を生きた盲人たち―』 あずさ書店、1993年10月、ISBN 4900354341