エリーザベト・フォン・ケルンテン

エリーザベト・フォン・ケルンテン・ゲルツ・ウント・ティロル(Elisabeth von Kärnten, Görz und Tirol, 1262年頃 - 1313年10月28日)は、オーストリア公およびシュタイアーマルクアルブレヒト1世の妻。夫が1298年ローマ王に選出されると、ローマ王妃となった。

エリーザベト・フォン・ケルンテン
Elisabeth von Kärnten
ローマ王妃
オーストリア公妃
ローマ王妃エリーザベトの肖像、15世紀
在位 ローマ王妃:1298年 - 1308年

出生 1262年
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公国ミュンヘン
死去 1313年10月28日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ケーニヒスフェルデン修道院→ザンクト・ブラジエン修道院→ザンクト・パウル・イム・ラヴァンタール女子修道院
結婚 1274年12月20日 ウィーン
配偶者 ローマ王アルブレヒト1世
子女 一覧参照
家名 ゲルツ家
父親 ケルンテン公マインハルト(2世)
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
宗教 キリスト教カトリック教会
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生涯

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ケルンテン公マインハルト(2世)と、その妻でバイエルン公ライン宮中伯オットー2世の娘であるエリーザベトの間の次女として生まれた。1274年ハプスブルク家のローマ王ルドルフ1世の長男であるオーストリア公アルブレヒトと結婚した。

エリーザベトは賢く、領主としての経営手腕にすぐれた女性で、商才に長けていた。ザルツカンマーグート塩田が建設されたのはエリーザベトの発案だったと言われる。1299年ニュルンベルクにおいてローマ王妃として戴冠した。

夫のアルブレヒト1世は1308年5月1日アーレ川沿いのブルクにおいて、ラインフェルト協定(Rheinfelder Hausordnung)に基づく財産分与が実現されないことに怒った甥のヨハン・パリツィーダの手にかかって暗殺された。夫の頓死に居合わせたエリーザベトは、そのままその地に残り、ブルク郊外にケーニヒスフェルデン修道院Königsfelden)を建設し、死後その修道院に埋葬された。

王妃の遺骸はその後、シュヴァルツヴァルトのザンクト・ブラジエン修道院(Kloster St. Blasien)を経て、現在はケルンテン州のザンクト・パウル・イム・ラヴァンタール女子修道院(Stift St. Paul im Lavanttal)に安置されている。

子女

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参考文献

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外部リンク

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