「大津浪記念碑」の版間の差分
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2011年4月10日 (日) 13:30時点における版
大津浪記念碑(おおつなみきねんひ)とは、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震による津波の後で、岩手県宮古市重茂姉吉地区に建てられた石碑である。
概要
重茂半島の東部、本州最東端のとどヶ崎の南西約2kmの所にある太平洋に面した姉吉漁港から、急坂を800m程上がり、海抜約60mの所に碑がある。大きさは縦約1.5m、横約50cm。碑文の内容は、この地区に来襲した1896年(明治29年)の明治三陸地震による津波、及び前述の昭和三陸地震による津波の被害を伝えるものになっている。この地区を含めて、三陸海岸には津波被害を伝える石碑が約200基見られるが、特にこの石碑が注目される理由は、碑文に記された「此処(ここ)より下に家を建てるな」という警告である。
碑文
※漢字の旧字体は新字体に改めた。
高き住居は児孫に[1]和楽
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て
部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ
幾歳経るとも要心あれ
経緯
姉吉地区は明治三陸地震による津波で60人以上、昭和三陸地震による津波で100人以上の死亡者を出し、壊滅的な被害を受けた。そこで、昭和三陸地震の後、地区の住民らが浄財によりこの石碑を建立すると共に、集落も、この碑よりも高い位置に形成している。
2011年(平成23年)に発生した東北地方太平洋沖地震による津波は、海側から見て石碑の約50m[2][3]手前にまで迫ったが、それより奥にあった集落までには至らず、建物被害はなかった。また、地震発生時に海岸近くにいた住民も、すぐに自宅に戻った結果、津波から難を逃れた。
警告の風化
このような、過去の津波到達点を記す石碑は他にも見られるが、過去の津波の惨禍も時間の経過と共に徐々に忘れ去られ、漁業等を営む上での便利さから、石碑よりも海側に、やがて海岸近くに家を建てる例が見られるようになっていった。こうした事例から、失敗学を提唱する畑村洋太郎は、「失敗は人に伝わりにくい」「失敗は伝達されていく中で減衰していく」という、失敗情報の持つ性質を見出している。
脚注
- ^ 「児孫」は「じそん」又は「こまご」と読む。碑文は「児孫に」だが、「児孫の」と表記する例も見られる。
- ^ “此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う”. 読売新聞. (2011年3月30日) 2011年4月10日閲覧。
- ^ 約70mと報じているものもある。“「津波」先人の警鐘生かされたか 東日本大震災”. 河北新報. (2011年4月10日) 2011年4月10日閲覧。
参考文献
- 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』講談社、2000年。ISBN 4-06-210346-X
関連項目
- 津波
- 明治三陸地震 - 昭和三陸地震 - 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)