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2014年5月14日 (水) 10:17時点における版
原尻鎮清(はらじりしげきよ、生没年不明)は戦国時代から安土桃山時代頃の武将。豊後国の戦国大名大友氏の家臣戸次鑑連や近世大名で柳河城主の立花宗茂に仕える。通称は左馬介、宮内。父は古庄鎮行(丹波)。弟に原尻市正、原尻与三右衛門。夫人は小野鎮幸の娘。子は古庄茂郷(越後)、立花三太夫夫人、十時八右衛門夫人。
出自
「柳河藩享保八年藩士系図」によると先祖は後に古庄次郎左衛門と改名した筑井親直(左衛門尉)とする古庄氏の出身。なお鎮清が原尻を称した経緯は「柳河藩享保八年藩士系図」では触れらていない。鎮清の子孫柳河藩士は原尻、古庄、筑井を名乗り、立花氏を賜姓される者もいた。
経歴
戸次鑑連の代において豊後入田郷藤北(現在の大分県豊後大野市)で召し出される。鎮連や宗茂に従って所々の戦場で戦功を挙げ、感状も賜る。
宗茂が立花氏養子となって岩屋城から立花山城に迎える際の御供を務めたり隈部親永を処刑する際の討手人数を務めて負傷している。慶長5年(1600年)まで大目付役を務めた。関ヶ原の戦いによる宗茂の改易以降は肥後国に移り、同地で死去する。