「ニューオーリンズの戦い」の版間の差分
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2006年7月20日 (木) 03:34時点における版
ニューオーリンズの戦いは、米英戦争の末期の、1814年12月から1815年1月に行われた戦い
ルイジアナ州、ニューオリンズの南、Chalmette で兵隊、航海士、市民軍、ネイティブ・アメリカン、海賊、アフリカン・アメリカン を含むアメリカ軍は、スコットランド人ハイランダーを含む白人、黒人(ヨーロッパに加え、西インド諸島から徴兵された)で構成されていたイギリス軍に勝利した
米英戦争の勝利はイギリスに合衆国のルイジアナとフロリダ西部の所有権を認めさせた(ガン条約)
又、政体的に合衆国になる岐路ともなった
戦いへの経過
アンドリュー・ジャクソン率いるアメリカ人は ニューオリンズからミシシッピ川を下流へ5マイル(8km)の Chalmette に陣を構え、イギリス軍へ速攻をかける決断をする;
12月23日、イギリス軍キャンプを夜襲、イギリス軍を撤退させ、装備、補給品を奪いニューオリンズへ帰還した。
- アメリカ軍は、24人が死亡、115人が負傷、74人が不明とイギリス軍捕虜になり
- イギリス軍は、46人死亡、167人負傷、64人が不明とアメリカ軍捕虜になった。
これによりイギリスの進軍は引き延ばされ、その間にアメリカ軍はミシシッピ川東岸に土塁工事、大砲の設置を行った
12月28日、Pakenham 率いるイギリス軍は土塁を攻撃、アメリカは土塁に砲列を作る( Line Jackson )
イギリスの主軍は1815年1月1日に到着、大砲でアメリカ土塁に攻撃
- 両軍大砲での打ち合いが3時間続く
- アメリカは大砲数台と土塁の一部が破壊された
- イギリス軍の弾薬が無くなった時に、アメリカ軍の弾薬はまだあった
Pakenham はイギリス全軍(アメリカ先住民 Hitchiti 民族、イギリス領西インド諸島の黒人兵士などを含む)を集結させて攻撃をかける決断をする
戦い
1月8日、イギリス軍は3回にわたって攻撃するがアメリカに食い止められる
Pakenham は3回目の攻撃で負傷、死亡に至る前に更なる攻撃を命じた
アメリカ軍の死者13人、58人負傷に対し、イギリス軍は死亡、負傷、捕虜に取られた者を合わせて約2,000人に達していた。
Pakenham の死後指揮を継いだ John Lambert 将軍は撤退を命じる。
アメリカ軍にはジャン・ラフィットと彼の仲間の海賊達が加わったが、彼らは赤い服を着ていたが、イギリス軍も赤い服を着ていた為に紛らわしかった。 何人かの海賊はイギリスの小隊に紛れ込み、彼らが敵だと気づく前に攻撃した。
戦い以降
両軍は約2週間前の1814年12月24日に終戦し、ガン条約が調印されていたことを知らずに闘っていた。
アンドリュー・ジャクソンは功績を評価され、後に第7代合衆国大統領に就任する
文献
- Remini, Robert V. The Battle of New Orleans: Andrew Jackson and America's First Military Victory. Viking Penguin, 1999. ISBN 0670885517
- Pickles, Tim New Orleans 1815; Osprey Campaign Series, #28. Osprey Publishing, 1993.
外部リンク
- 地図
- ニューオーリンズの戦い — ルイジアナ州立博物館の要約、写真
- History of Louisiana, Vol. 5, Chapter 10 — detailed account by Charles Gayarré
- The Battle of New Orleans — detailed account by John Smith Kendall
- The Glorious Eighth of January — colorful account by Grace King
- Battle of New Orleans - 1959年、 グラミー賞2部門受賞の Jimmy Driftwood の歌「ニューオーリンズの戦い」の歌詞