王 守道(おう しゅどう、? - 1270年)は、最初期のモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は仲履。真定府平山県の出身。

略歴 編集

金朝末期、モンゴル軍の侵攻と金朝朝廷の南遷によって華北が荒廃すると、時に虐げられた民が県令等の官吏を殺害することもあったが、王守道が県尉とされた時には人々は喜んだという。モンゴル帝国に早くから帰順した史天倪が河北西路兵馬都元帥の地位に就くと、真定を拠点として大名府沢州潞州懐州孟州を配下に収めたため、王守道もこれに降った[1]

後に武仙が降った時、王守道は史天倪に対して武仙は史天倪の下位に立たされたことに不満を抱いているため、注意せよと助言した。果たして、武仙はモンゴルに対して叛乱を起こして真っ先に史天倪を殺害したため、史氏一族は史天倪の弟の史天沢を中心に結集し武仙を攻めた。また、史天倪のもう一人の弟の史天安はこれを聞くと駐屯先の白霫から駆け付け、遂に真定を奪回した。敗れた武仙は西方の城塞に逃れ、王守道の家人を人質に裏切るよう誘ったが、王守道はこれを峻拒し、史氏一族と協力して武仙を討った[2]

後に史天沢が五路万戸の地位に就くと王守道は行軍参謀兼検察使に抜擢された。この頃、真定一帯はトルイ家投下領とされ、早世したトルイの妻のソルコクタニ・ベキが管理を行っていたため、王守道はこれに仕えて真定の統治に携わった。1261年(中統2年)、史天沢が中書右丞相の地位を授けられると、王守道もあわせて真定等路万戸府参謀の地位を授けられたが、1270年(至元7年)に亡くなった[3]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻153列伝40王守道伝,「王守道字仲履、其先真定平山人。金亡群盗並起、州県吏多乗乱貪暴不法、民往往殺令丞及属吏。宣撫司署守道為県尉、衆悦之、因転摂令、改真定主簿。史天倪為河北西路兵馬都元帥、鎮真定、既収大名・沢・潞・懐・孟城邑之未附者、以為府経歴」
  2. ^ 『元史』巻153列伝40王守道伝,「及金恒山公武仙降、署為史天倪副帥、守道謂天倪曰『是人位居公下、意有不平、安能鬱鬱於此。宜先事為備』。天倪不以為然、未幾、果為所害。及仙以城反為金、史氏之人与属県旁近豪傑、納天倪之弟天沢為主帥、攻仙。時史天安在白霫、聞変、率兵亦至、遂復真定。仙走保西山諸寨、執守道家人、以重幣誘之、守道不顧、日与史氏部曲昆弟徴発調度以復讎、卒逐仙遁去」
  3. ^ 『元史』巻153列伝40王守道伝,「後擢慶源軍節度使、天沢為五路万戸、署守道行軍参謀、兼検察使。荘聖太后以真定為湯沐邑、守道在鎮、以幕僚頻歳致覲、敷対称旨、得賜金符・錦衣・金銭。中統三年、天沢入拝左丞相、即授真定等路万戸府参謀。至元七年卒。至大元年、以子顒貴、特贈銀青栄禄大夫・大司徒、追封寿国公、諡忠恵。仁宗即位、復加推忠協力秉義功臣・金紫光禄大夫・大司徒・上柱国」

参考文献 編集