王渉
王 渉(おう しょう、? - 23年)は、中国の前漢末期から新代にかけての武将・政治家。冀州魏郡元城県委粟里の出身。父は王莽の叔父の曲陽侯王根。王莽の従弟にあたる。
事跡
編集姓名 | 王渉 |
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時代 | 前漢時代 - 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 23年(地皇4年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 冀州魏郡元城県委粟里 |
職官 | 衛将軍〔新〕 |
爵位・号等 | 直道侯〔新〕→直道公〔新〕 |
陣営・所属等 | 王莽 |
家族・一族 | 父:王根 一族:王莽〔従兄弟〕 |
天鳳5年(18年)、直道侯の地位にあった王渉は衛将軍に任命され、また、王莽は王根がかつて自分を引き立ててくれた恩を思っていたため、王渉は直道公に昇格した。
地皇4年(23年)6月、大司空王邑率いる新の主力部隊が、昆陽で劉秀(後の光武帝)率いる漢軍に殲滅され、大司徒王尋も戦死した。新の滅亡が近づく中で、王渉は、日頃世話をしていた道士西門君恵から「天文によれば劉氏が当に復興しようとしています。国師公(劉歆)の姓名はこれにあたります」旨の進言を受け、これを信じる。そして、大司馬董忠と共謀して、劉歆を説得して皇帝に擁立し、挙兵しようとした。しかし劉歆は、天文観察によれば東方の軍隊(更始帝、劉秀らの荊州の漢軍)が成功するだろうと述べ、消極的な姿勢を示す。そこで王渉は計画を変更し、王莽を捕え、荊州の漢軍に投降することを劉歆に持ちかけ、劉歆もこれに応じた。
しかし、董忠配下の司中大贅・起武侯孫伋が王莽に密告して、王渉らの陰謀は露見してしまう。王莽の指図により董忠は宮中で誅殺され、王渉と劉歆は自殺して果てた。王莽は、王渉が親族、劉歆が古くからの部下であることから、政権の内部崩壊を恐れ、この事件を公開しようとしなかった。
参考文献
編集- 『漢書』巻99下 列伝69下 王莽伝下
関連項目
編集【魏郡王氏系図】(編集)