王 龔(おう きょう、生没年不詳)は、後漢政治家は伯宗。本貫山陽郡高平県

経歴編集

累代の豪族の家に生まれた。孝廉に察挙され、青州刺史に累進して、汚職をはたらく太守数人を弾劾した。安帝に賞賛され、洛陽に召還されて尚書に任じられた。121年建光元年)、司隷校尉に抜擢された。122年延光元年)、汝南太守として出向した。王龔の政治は温和をたっとび、才能ある人士を好むもので、汝南郡出身の黄憲陳蕃らを推挙した。

126年永建元年)、洛陽に召還されて太僕となり、太常に転じた。128年(永建3年)、茂陵火災があったため、太常である王龔は節を持って茂陵のことを武帝廟に報告した[1]129年(永建4年)9月、司空に任じられた[1]133年陽嘉2年)4月に洛陽で地震が起こると、5月に王龔は司空を免官された[1]

136年永和元年)12月、太尉に任じられた[1]。王龔は宦官たちの専横を憎んでおり、137年(永和2年)には中常侍の張昉らが国政を壟断しているとして、処断するよう上奏した[2]。宦官たちは王龔を恐れて、賓客たちに王龔の罪を誣告させた。ときに李固大将軍梁商の下で従事中郎をつとめており、王龔を擁護するように梁商に勧めた。そこで梁商が順帝に言上したため、王龔は事なきをえた。

王龔は老病を理由に引退を願い出て、140年(永和5年)9月に太尉を辞した[1]。後に家で死去した。

子に王暢があった。

脚注編集

  1. ^ a b c d e 後漢書』順帝紀
  2. ^ 『後漢書』五行志四

伝記資料編集

  • 『後漢書』巻56 列伝第46