琳聖太子
琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島の百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子[1][2]で武寧王の孫とされる。名は義照。威徳王の孫で餘璋の子とするものもある[3][4]。百済王の齋明の第三子とも[5]。
概要
編集15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献にみることはできない[6]。
大内氏の百済との繋がりを名乗り始めた大内氏当主が、朝鮮半島との貿易を重視した大内義弘であるとみられる[7]。その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したとみられる。外来系の諸侯がいたところで不思議ではないが、それがどこまで世間の「歴史常識」となっているかは疑問であり、外来系と称していながら、ほんとうは怪しいといったケースも多々あり、とくに外来系という系譜を持った家は、大内家に代表される西日本に多い[6]。「大内」というのは、その居所の広さを時の人が尊んでいったもので、琳聖太子9世の子孫のときから、それを名字にしたというが、福尾猛市郎によると、琳聖太子などというのは、この大内家の先祖に関してしか出てこない名前であり、実在を証明する史料はない[6]。大内家の家系伝承も室町時代にできたものとみられ、文献的には応永年間(1394年から1427年)以前には遡れないというのが学界の多数説である[6]。
『李朝実録』によれば、大内氏は応永6年(1399年)に朝鮮へ使節を派遣し、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。その要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が同氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知られており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述がみえる。
江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』において、「蜀漢の劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、北宋の趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。日本の戦国武将の系図にも同様の例が多い」と述べている[8]。
家系
編集聖王(聖明王) ┃ 琳聖太子 ┃ 琳龍太子 ┃ 阿部太子 ┃ 世農太子 ┃ 世阿太子 ┃ 阿津太子 ┃ 大内正恒
現在
編集脚注
編集- ^ 松田甲『日鮮史話 第2編』朝鮮総督府、1926年、1頁 。
- ^ 『山口県史 上巻』山口県史編纂所、1934年、60頁 。
- ^ 大森金五郎『国史概説』日本歴史地理学会、1910年、481-484頁 。
- ^ 岡田僑『日本外史補 新訳』新潮社、1912年、40頁 。
- ^ 妹尾薇谷『日本史蹟文庫 群雄の争乱』岡田文祥堂、1913年 。
- ^ a b c d 鈴木眞哉『戦国武将のゴシップ記事』PHP研究所〈PHP新書〉、2009年5月16日、11-12頁。ISBN 4569709559。
- ^ 下松市史 通史編. 松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ. 下松市. (1989). p. 112-113
- ^ 林亮勝・橋本政宣・斎木一馬『寛永諸家系図伝 第1』続群書類従完成会、1980年1月1日、14頁。ISBN 4797102365 。
- ^ “百済王家末裔が船橋に! 習志野で企画展、資料など200点展示 千葉”. 産経新聞. (2015年11月18日). オリジナルの2022年1月4日時点におけるアーカイブ。
- ^ “百済と日本結ぶ韓日友好の願い…琳聖太使45世孫 大内公夫さん”. 在日本大韓民国民団. 民団新聞 (2014年3月19日). 2021年1月5日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- “〈2〉朝鮮貿易意識した系譜”. 読売新聞. (2004年10月2日). オリジナルの2009年2月12日時点におけるアーカイブ。