生駒 正種(いこま まさたね)は、江戸時代初期の大名生駒家の一門。讃岐高松藩家老生駒将監の子。通称帯刀(たてわき)。

 
生駒 正種
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 正保2年12月17日1646年1月23日
別名 帯刀(通称
墓所 香川県高松市弘憲寺
幕府 江戸幕府
主君 生駒正俊高俊
高松藩家老
氏族 生駒氏
父母 父:生駒将監
兄弟 正種、佐藤久兵衞、園池宗朝室(生駒一正養女)、多賀源介室。
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生涯編集

父の将監は、高松藩主生駒正俊高俊父子に首席家老として仕えた。元和7年(1621年)に正俊が没し、嫡男の高俊(小法師)が家督を継ぐと藤堂高虎(正俊の室の実父)と高次父子が後見役となった。そして、将監父子の影響力を削ごうと自らの家臣前野助左衛門石崎若狭を生駒家の江戸詰の重臣とした。寛永10年(1633年)にの将監の病没後、帯刀は家督を継ぐが、前野により家老職を免職となった。逆に前野と石崎は権勢を奮い、専横が目立つようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちは、帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えることになった。これが生駒騒動の発端である。

寛永14年(1637年)7月、生駒帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き、訴状を差し出した。訴状を受け取った藤堂高次は容易ならぬことと思い、土井利勝や生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、穏便に済ますよう帯刀を説諭して国許へ帰らせた。しかし家中の対立は収まらず、寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。国許にあった高次は帯刀をに呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。寛永16年(1639年)5月、高次は一件を収拾するため喧嘩両成敗として、双方の主だった者5人に前野、石崎および国許から帯刀を藤堂藩邸に呼んで説得し、彼らは切腹することを承知した。帯刀は藤堂家の領地の伊賀国へ退いた。

しかし、帯刀派は忠義の者が同罪というのはおかしいと、江戸にいる藩主高俊に、帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。それまでの顛末を知らない高俊は驚き、高次に抗議したため、高次は後見職から手を引いた。これにより、帯刀は国許に帰った。前野と石崎も切腹をやめ、前野・石崎派は老中稲葉正勝を介して幕府に訴状を提出した。そして、武装をして、一族郎党が国許から退去し、大騒動に発展した。

幕府の詮議により、前野・石崎派は武装して立ち退いたことなど幕府の心象が悪く、4人が切腹、また多くの者が処刑となったのに対して、帯刀派に対しては生駒帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲国松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。藩主の生駒高俊は出羽国流罪となり、堪忍料として矢島1万石を与えられた。

松江藩にお預けとなった帯刀だったが、前野・石崎派で、処刑された飯尾兼友の甥、飯尾兼晴の仇討ちを受け、松江藩家老乙部可正邸で命を終える[1]。墓所は香川県高松市の弘憲寺

脚注編集

  1. ^ 兼晴の弟・兼勝は伯父・兼友の養子となっており、兼友に連座して処刑された。兼晴は正種を叔父と弟の仇として付け狙い、家老乙部家に遠山市郎左衛門の変名で鷹匠として仕え、正種に接近し本懐を遂げた。『松江藩祖直政公事蹟』

関連項目編集

外部リンク編集