田所美治
日本の文部・内務官僚、貴族院勅選議員
田所 美治(たどころ よしはる、明治4年4月13日(1871年5月31日)[1][2] - 昭和25年(1950年)5月6日[3])は、日本の文部官僚・内務官僚・貴族院勅選議員。文部次官、錦鶏間祗候。
田所 美治 たどころ よしはる | |
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生年月日 | 1871年5月31日(明治4年4月13日) |
出生地 | 土佐国高知(現・高知県高知市) |
没年月日 | 1950年5月6日(78歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
所属政党 | 同和会 |
称号 | 従四位勲一等 |
配偶者 | 敬(奥山政敬三女) |
子女 | 義徳(長男)、登美(長女・永田三十郎妻)、義夫(次男)、春(次女・森村勇妻) |
親族 | 浪吉(弟) |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1918年9月21日 - 1947年5月3日 |
経歴
編集土佐藩士田所美之の長男として生まれる。第二高等中学校を首席で卒業[4]。1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入り内務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。以後、愛媛県、宮城県、東京府の参事官を歴任した。その後、文部省に転じ、参事官、書記官、文部大臣秘書官、普通学務局長、文部次官を歴任した[1]。また学習院御用掛[5]、宮内省御用掛[6]、学習院評議会会員[6]を兼ねた。
1918年(大正7年)9月21日、貴族院議員に勅選され[7]、退官した。退官後も臨時教育会議委員、文政審議会委員、宗教制度調査会委員、教育審議会委員、教学局参与など多くの委員・役員を務めた[1]。1920年(大正9年)7月17日、錦鶏間祗候に任じられた[8]。また、ろう教育に力を注ぎ、1931年に聾教育振興会が成立すると理事に就任した[1]。その他に大日本武徳会副会長も務めた。1936年(昭和11年)からは順心高等女学校(現在の広尾学園中学校・高等学校)校長を務めた[1]。
実業方面では大阪電灯株式会社社長、共同火災海上保険株式会社社長などを歴任した。
栄典
編集- 勲章等
著作
編集- 「教育七十年を回顧して」(『文部時報』第730号、帝国地方行政学会、1941年7月)
脚注
編集- ^ a b c d e 田所美治外四名叙勲並勲章加授ノ件(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- ^ 『人事興信録 十版(下)』では4月17日生。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』134頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』175頁。
- ^ 『官報』第531号、大正3年5月8日
- ^ a b 『官報』第1282号、大正5年11月9日
- ^ 『官報』第1843号、大正7年9月23日。
- ^ 『官報』第2389号、大正9年7月19日
- ^ 『官報』第574号「叙任及辞令」1914年6月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
参考文献
編集外部リンク
編集公職 | ||
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先代 福原鐐二郎 |
教員検定委員会会長 1916年 - 1919年 |
次代 南弘 |
先代 福原鐐二郎 |
文部次官 1916年 - 1918年 |
次代 南弘 |
先代 足立寛 |
医師試験委員長 薬剤師試験委員長 1916年 - 1918年 |
次代 南弘 |
先代 (新設) |
歯科医師試験委員長 1916年 - 1918年 |
次代 南弘 |
ビジネス | ||
先代 町田忠治 |
共同火災保険社長 1920年 - 1928年 |
次代 坂野兼通 会長 |
先代 永田仁助 |
大阪電灯社長 第3代:1918年 - 1919年 |
次代 宮崎敬介 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
順心女子高等学校長 1948年 - 1950年 |
次代 酒井茂雄 |
先代 下田歌子 |
順心高等女学校長 1936年 - 1949年 |
次代 (廃止) |