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畠山 直宗(はたけやま ただむね、? - 貞和5年/正平4年12月20日1350年1月28日))は、南北朝時代の人物。通称は大蔵少輔・四郎太郎。畠山時国の弟・義生を祖とする美濃畠山氏の出身。父は畠山宗国(むねくに)。叔父に南九州において一時的に勢力を誇った、日向国守護畠山直顕がいる。

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生涯編集

史料における初見は、康永3年(1344年5月17日の、足利尊氏の弟・足利直義今熊野参詣行列の供奉人の中に見られる「畠山大蔵少輔」である[1]。詳しい事跡については不明な部分が多いが、のちの活動(後述参照)からして直義の側近であったとされ、また(名前)の「直」の字も直義から偏諱を受けたものとされる[2]。叔父の直顕(初名義顕)も同様であったとされる[3]

室町幕府将軍尊氏と直義の二元体制で運営されていたが、やがて尊氏の執事高師直師泰兄弟と直義の対立が顕在化してくる。正平4年/貞和5年(1349年)、直宗は上杉重能と共に讒言し、師直の執事職を解任させることに成功した[4]。しかし、その直後に師直らはクーデターを起こして巻き返しを図ったために、逆に直義が失脚してしまう。古典「太平記」によると、直宗は重能や禅僧妙吉と共謀して師直らの暗殺計画を企てたが、謀議は暗殺直前に漏れて師直は虎口を脱した[5]。やがて師直方に捕縛された直宗と重能は所領を奪われた上で越前国江守に配流され、同年12月、配流先で師直の密命を受けた越前守護代八木光勝の奸計に填められ家族・主従53名は共に自害した[6]。これが観応の擾乱の発端となる[7]。尚、このことを記している洞院公賢の日記『園太暦』には、重能の名は明記されているのに対し、直宗については「畠山大蔵少輔某」と記すのみであり、あまり知られた人物ではなかったようである[8]。この最期については「直義の側近中の側近でありながら、独自の軍事力を持たず、叔父などとの連携もならないまま、あっけない最期を遂げた。」との評価もある[9]

南朝:正平6年/北朝:観応2年(1351年)2月、南朝に属した直義の軍勢に敗れた師直ら高氏一族は摂津国武庫川付近で上杉能憲(重能の養子)の手勢により殺害されるが、討手の中には直宗の遺臣も含まれていたとされる[10]

脚注編集

  1. ^ 阪田、1994年、P.7。『朝日日本歴史人物事典』「畠山直宗」の項(執筆:石田晴男)。典拠は『師守記』同日条(『大日本史料』6-8 P.253、『南北朝遺文』関東編2 P.302-304 1498号)。
  2. ^ 阪田、1994年、P.1・7・12-13。『朝日日本歴史人物事典』「畠山直宗」の項(執筆:石田晴男)。
  3. ^ 阪田、1994年、P.7-8。
  4. ^ 『太平記』巻二十六「上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事」。
  5. ^ 『太平記』巻二十七「左兵衛督欲誅師直事」。
  6. ^ 『太平記』巻二十七「上杉畠山流罪死刑事」。
  7. ^ 阪田、1994年、P.7。
  8. ^ 阪田、1994年、P.7。典拠は『園太暦』同年8月15日条。
  9. ^ 『朝日日本歴史人物事典』「畠山直宗」の項(執筆:石田晴男)。
  10. ^ 『太平記』巻二十九「師直以下被誅事付仁義血気勇者事」。

参考文献・史料編集

  • 大町桂月 校訂『新訂 太平記』〈学生文庫・第四十篇〉 至誠堂書店、1913年
  • 今谷明藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典(下)』 新人物往来社、1988年、ISBN 4-404-01533-X C1521。
  • 阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」(所収:國學院大學地方史研究会機関誌『史翰』21号、1994年)
  • 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社編、1994年)
  • 大日本史料

外部リンク編集